クラウディオ・ケラヴノス 十二

 屋敷に帰ると、夫人は帰って来たばかりだったらしい。

 昼前に炊き出しが終わったというのに、今はもう日も沈んでいる。こんな時間までいったいどこで何をしていたと言うんだろう。


 エリィに夕食がてら聞き出してもらったところ、案の定ずっと孤児院の「個室」でお楽しみだったようだ。実に欲望に忠実で快楽に弱い夫人らしい。

 プルクラ・ティコスは彼女を共犯に引き込むことで、摘発の手を緩めさせるつもりだったんだろう。


 幸いなことに、彼女はスープに薬物が混入していた事にはまったく気付いていなかったようだ。薬物汚染については意図的に加担していたわけではないとわかってエリィも胸をなでおろしていた。これについては僕も同感だ。


 僕たちが見た時には調理に使った器具などは綺麗に洗浄された後だった。しかもご丁寧なことに炊き出し中に使った前掛け類はすべて回収して教会で洗濯したのだとか。

 これでは薬物の検出は難しいので密売ルートや証拠集めの役には立たない。後で貧民街を探して使った食器が落ちていないか探してみるしかないか。


 エリィはパトリツァ夫人の言動が最近になっていろいろと改善されてきたと喜んでいたから、今回の手酷い裏切りにはだいぶ傷ついていた。

 もっと早くにプルクラ・ティコスと手を切らせるべきだった、と自分の見通しの甘さを責めて苦しんでいるエリィの顔を見ているのは辛い。


 彼はよほどショックだったのか、夜通し書類と格闘していた。仕事に集中していないと居ても立っても居られないのだろう。

 僕は先日来の体力の消耗が激しいので先にソファで休ませてもらったんだけど、朝目が覚めたらエリィが机に突っ伏してうたた寝していたので肩に毛布を掛けておく。そのままどうしても立ち去りがたくて、全く起きる様子のない彼の寝顔をずっと眺めていた。


 パトリツァ夫人はなぜこんな愚かな言動ばかり重ねて自分で自分の首を絞めるような真似をするのだろう。たとえ政略結婚とはいえ、エリィは有能だし優しいし、正直に言って彼女にはかなりもったいないくらいの夫のはずなのに。


 結婚当初、彼はパトリツァ夫人相手に恋はできなくても、家族としての愛情を育めるよう、折にふれて贈り物をしたり会話を試みたりと、彼なりに努力を重ねてきた。その都度馬鹿にしきった態度でやれつまらないの気が利かないのと人前だろうが構わず罵られ、凹んだエリィの姿も散々に見てきた。


 度重なる不貞やトリオに対する態度などが重なって、今はすっかり冷たくなってしまったけど、それでも公の場では彼女を尊重しているじゃないか。

 何が不満でここまで彼をおざなりに扱って、裏切りを繰り返すのだろう。僕だったら絶対に大切にするんだけどな。


 いや、僕だってわかってはいる。

 尊重する態度を取られればとられるほど侮り蔑んだ目線を送って踏みにじることで、支配欲を満たして優越感を得ようとする。それがパトリツァ夫人という女だ。

 どれだけ彼女の心に寄り添うよう心を配ったところで彼女は不平不満をまき散らし、身勝手な要求と手酷い裏切りを繰り返す。

 そうして周囲が慌てて彼女のご機嫌を取ろうとして振り回される姿を見て、「自分は何をしても許される存在だ、だから自分は価値のある素晴らしい人間なのだ」と思い込みたいのだ。


 それは彼女のコンプレックスの裏返し。

 彼女自身には秀でた能力なり資質なり技能なりといった付加価値が何一つない。それどころか貴婦人として最低限のマナーや教養すら身についていないのだ。

 それなのに、少女時代に周囲の優秀な素晴らしいご令嬢たちを差し置いて自分が男性たちにチヤホヤされたので、自分は何一つ努力しなくても彼女たちよりも素晴らしい価値ある存在なのだと勘違いしてしまった。それが彼女にとっても周囲にとっても不幸だったのだろう。


 さすがに今となっては彼女も自分自身には何の価値もない事を自分でも薄々感じている。だから周囲の人の反応を見て自分に価値があると思い込んで安心したいのだ。

 そんな下らないことで周囲に迷惑をかけまくって己の評価をどこまでも下方修正するくらいなら、何か一つでも努力してできることを増やして、自分自身の価値を高めれば良いのに。


 エリィも僕も、毎日鍛錬を怠らないし、少しでも時間があれば勉強して少しでも自分の能力を磨くように努めている。ひとつ屋根の下にいてその姿を見ていれば、自分が何もしていないことも、何かをすべきだということも、言われなくてもわかると思うんだけどな。


 疲れと焦燥を滲ませた寝顔を見ているのも辛くなって、そっと頬にキスをして朝の支度にとりかかることにした。

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