エルネスト・タシトゥルヌ 八

 パトリツァは癇癪かんしゃくを起して気分転換に街に遊びに行ってしまったそうだ。どうせまたどこかで愛人と示し合わせて遊び歩いているんだろう。


 我々は登庁してせっせと書類とにらめっこだ。

 法務省の資料室にある記録を照合して明らかになった問題点を、関係する他の役所に残っている資料をもとに裏付け作業をしなければならない。

 これがかなり地道な作業の上、量も多いのだ。場合によってはさらに別の役所から資料を取り寄せなければならなくなるのだが、その都度煩雑はんざつな手続きが必要になる上、快く協力してくれるところばかりではない。

 この日もすっかり心身ともに疲れ果てたあげく、帰宅できたのはすっかり夜も更けてからだった。


 帰宅してすぐ、執務室に違和感があった。大きく荒らされているわけではないのだが、細々としたものの配置が変わっている。それに、机の上にあった使いかけの便箋が綺麗になくなっている。

 幸い、机の引き出しなどには全て鍵をかけてあるので、大事な資料や書類は無事である。

 ……さて、あの便箋でどこまで踊ってくれることやら。


 夜半、今日持ち帰った資料の確認があらかた終わったところで、ディディが言いにくそうに切り出した。


「来週ちょっとお休みをいただいて良いかな?神殿の方に行かなくちゃいけなくて」


 どうやら、また神殿で「神の奇跡」とやらを演出するために治癒魔法を行使させられるらしい。自分たちの功績でもないのに、ディディに術を使わせておいて、受け取る名声と恩義はすべて奴らが独占する。教団の連中の図々しさには呆れるばかりだ。


「また泣きつかれたのか?神の奇跡を演じたかったら毎度まいど他人様をあてにしてないで、自分たちでまともに使える術者を育てるべきだろうに」


「使う人がすごく少ない魔法だから、教えられる人もほとんどいないし、なかなか習得できないのも仕方ないよ。習得するのもけっこう難しいみたいだし。今回はだいぶ腎臓をやられてるみたいで、大きく損傷した臓器の再構築ができる人じゃないと役に立たないみたい」


 治癒や身体強化といった身体操作魔法は、習得のためには極めて繊細な魔力操作能力と魔術、医学双方への深い理解が必要不可欠なのだ。教えられれば誰でも使えるようになるわけではない。

 何年かけたところで、よほどの素質のある者でなければ初歩の初歩すら身につける事は叶わないのだ。


 したがって、ごく簡単な治癒魔法でさえ使える人間はきわめて少ない。まして損傷した臓器や四肢の再構築ができるレベルとなると……わが国ではディディの他には彼の師匠とその一番弟子くらいだろう。

 二人とも数年前は私設騎士団に所属していたらしいが、今は王立騎士団、それも警邏けいらを担当する第二旅団に所属しているので、教会から気楽に物を頼める相手ではない。奴らだって藪をつついて蛇を出したくはなかろう。


「腎不全はここまで悪化しちゃうとすごくしんどいんだよ。全身むくむし、あちこち痛いし、息苦しいし。そのくせすぐに死ねるわけじゃないし……

 マリウス殿下たってのお願いだし、神殿にも貸しを作れるし……ね? お願い?」


 澄んだオレンジ色の瞳を潤ませて、患者がいかに苦しんでいるか訴えられれば、渋々ながらも許さざるを得ない。

 いやまぁ、王弟殿下からの「お願い」という時点で断る選択肢は我々に与えられてはいないのだが。


「……仕方ないな。絶対に、無理はするなよ」


「忙しい時にごめんね? ちゃんと埋め合わせはするから」


「期待してるぞ」


 埋め合わせなどは正直欲しくないが、そうでも言わないとディディは後から気に病むだろう。


 それにしても、教会の連中も気軽に依頼してくれるものだが……

 はたして治癒や精神操作といった身体操作系の魔法が、代償として魔力の他にも術者の肉体や生命力を大量に消費するという事を、どの程度きちんと理解しているのだろうか?

 損傷した臓器を治癒ではなく、再構築しなければならないという事は、また三日は寝込む羽目になるだろう。


 無理な術の使い方をして、自らの臓器を失った術者もいたと聞く。

 それだけのリスクを強制しておいて、ろくに感謝もせず自分たちだけの功績のように誇る月虹教団の連中の事は、どうしても信用できない。

 奴らが教会を隠れ蓑に様々な悪事に手を染めているのはわかりきっている。それらを摘発する事で、少しでもこの奇跡の大安売りがなくなってほしいものだが。


 とにかく彼が教会に行かされる日には、好物でもたくさん用意しておいてしっかり休養が取れるように準備しておかなければ。

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