パトリツァ・コンタビリタ 四

 朝っぱらから我が子を奪われ、不快な思いをしたものの、エスピーア様と愉しいひと時を過ごしたことで、わたくしはすっかり機嫌を直して家路につきました。


 帰宅したのは昼下がり、旦那様はお仕事にお出かけのようでした。わたくしはカフェでたっぷりお菓子をいただいてお腹がいっぱいだったのでお昼は食べないことにして、旦那様の執務室に向かいました。


 旦那様の執務室には机が二つ。

 そして大きめのソファは大人の男性がゆうに横になることができます。お仕事が立て込んでいる時は、旦那様はこちらにこもりきりになって、このソファで仮眠をとっておられるようでございます。

 机の上はどちらも綺麗に片づけられ、書類などは一切残っていないようです。引き出しもきっちりと鍵がかけられ、中に何が入っているかはわかりません。

 わたくしはこの家の女主人ですのに、この家の中にはわたくしが持っていない鍵がとても多く、それが時折わたくしと不安にさせます。この引き出しもその一つのようでございます。


 おや、机の上に使いかけの便箋があるではありませんか。何も書かれてはおりませんが、よく見るとうっすら何かの跡があるようにも見えます。

 きっと前回使った時のペンの跡が残っているのでしょう。旦那様は筆圧が少し強いのです。

いったい誰に何を書き送ったのでしょうか。

 わたくしは思わずその便箋をそっと懐に忍ばせて、旦那様の執務室を後にしました。


 旦那様があの方を伴って帰宅されたのは夜もだいぶ更けてからでした。少々お疲れのご様子で、湯を使ったらまた執務室でお仕事にかかられるとか。

 先に休むようにおっしゃられるので、わたくしは一人寂しく寝室に向かいました。


 夜半、ふと目が覚めましたが、夫婦の寝室に旦那様はいらっしゃいません。何とはなしに寝付けずに、庭で夜風にでもあたろうと部屋を出ますと、旦那様の執務室から灯りが漏れております。

 それとなく様子をうかがうと、かすかに話し声が聞こえました。


「来週ちょっとお休みをいただいて良いかな?神殿の方に行かなくちゃいけなくて」


「また泣きつかれたのか?神の奇跡を演じたかったら毎度まいど他人様をあてにしてないで、自分たちでまともに使える術者を育てるべきだろうに」


 遠慮がちながらもかすかな甘えを含んだあの方の声に応える旦那様の声は、多少の呆れを含みながらも温かく思いやりに満ちたものでした。

 わたくしに向ける穏やかで優し気ながらも、どこかよそよそしくお行儀の良い声とは大違いです。


「使う人がすごく少ない魔法だから。教えられる人もほとんどいないし、なかなか習得できないのも仕方ないよ。

 今回はだいぶ腎臓をやられてるみたいで、大きく損傷した臓器の再構築ができる人じゃないと役に立たないんだって。腎不全はここまで悪化しちゃうと息苦しくてすごくしんどいんだよ。全身むくむし、あちこち痛いし……

 マリウス殿下たってのお願いだし、神殿にも貸しを作れるし……ね?お願い?」


「……仕方ないな。絶対に、無理はするなよ」


 少しだけあの方の声に混じる甘えが濃くなった気がします。旦那様のお声に混じる優しさも。


「忙しい時にごめんね?ちゃんと埋め合わせはするから」


「期待してるぞ」

 

 お話の内容はほとんど理解できませんでしたが、声の調子から気心の知れた者同士の親密な様子は伝わってきます。どうやら旦那様は渋っておられたのに、あの方がしつこくおねだりしてお許しをもぎ取ったようでございますわね。

 何の事だか存じませんが、遠慮がちにみせかけて随分とあつかましいことでございます。最後のやり取りなど、軽く笑みを含んだ声は艶やかでどこか甘さが混じっており、まるで恋人同士の睦言のよう。


 旦那様は、わたくしに対しては常に礼儀正しく、細やかに気遣って下さる代わりに、どこか深入りすることを許さない空気をまとっておられます。このような気の置けない、楽し気な声でわたくしとお話しいただいた覚えはございません。もちろんわたくしがあの方のように旦那様に何かをねだることもございません。

 それが時折とても切なく、不安になってしまうのです。


 その後、話し声もほとんど聞こえなくなり、わたくしはほぞを噛む思いで寝室に戻りました。

 旦那様は朝まであの方とご一緒だったのでしょうか。夫婦の寝室には結局いらっしゃいませんでした。

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