7 - 先立つもの

 何はともあれ、先立つものが必要な事を思い知らされました。使える武器がなくなった今の菜優では、街と家とを安全に往来することもままならない状況です。だから菜優は仕事を請けてから帰ろうと考えて、依頼の掲示板を覗いてみました。が、大体はモンスターの討伐だったり、遠くの街への配達だったりと、難しそうなものばかり残っていました。


 その中に一つ、ピアノの演奏依頼が混ざっているのを見つけました。報酬は五百Tと書いてあります。お金の価値や単位は分かりませんが、五百円くらいあれば、一食分の食料程度のものは買えるでしょうと、菜優は思考を巡らせます。更に言うと、イースティアに流れ着く前の菜優は、ピアノコンクールで銀賞を取ったりするなどしていたのです。ピアノには自信がありました。私にぴったりだと思った菜優は、依頼票を取ろうとしました。その時、コアトルが目にも止まらぬ速さで速度で菜優の腕に這い上がり、指の間に全身を絡めるようにして大慌てで引き止めました。


「ナユ、止めておきましょう。演奏依頼を請けるなんて正気ですか」


「でも私、ピアノなら自信あるよ。多分、ここで出来る他のどんなことよりも」


「それでも、です。死にたいのであれば、これ以上には止めませんが」


「え?え?死にたくはないよ?てかさ、なんでピアノで死ぬ死なないの話になるんさ」


 菜優の理解は全く追いついて来ておらず、不思議そうな表情を浮かべています。コアトルは、建物の奥の方に置いてあるピアノの方を指差すように器用に体を尖らせます。菜優がそちらを注視したのを認めてから、コアトルは話を続けました。


「ご覧なさい、ナユ。床が赤黒く汚れているのが分かりますか」


 よく見えなかったので、菜優はピアノに近づいてみました。すると、およそ綺麗なその床に、点々と赤黒い染みのようなものが認められました。


「たしかに、なんか赤黒い染みみたいなんがぽつぽつ付いとるな」


「そうでしょう。これ、血なのですよ。演奏が気に入られないと、演奏家に向けて野次と共に様々なものが投げられてきます。石とか、酒瓶とか。それらをモロに喰らって、散った命は枚挙に暇がありません」


「うええ。ここのピアニストて、命がけなんやな…」


「左様です。まぁそれでも優秀な職業故に目指す方は多いですが…ともかく、ピアノを飯の種に出来るとは、考えないほうがいいですね」


 演奏依頼がこなせたもんじゃないと分かると、とうとう、菜優が請けられそうな仕事はなくなってしまいました。落胆しながら、掲示板から離れます。


「歯痒いなあ。なるべく早よにお金が必要やのに、なんも出来んなんて」


「そうですね…後は何かを買い取ってもらうことは出来ましょうが」


「そんなん言うたって売れるもんなん、ライアンさんから貰った剣しかないよ。なんか、後ろめたいやんな」


「心得ていますよ、ナユ。もっとも呪われているので、手放すことは叶いませんが。ただその剣、おそらくは相当の業物ですよ。解呪出来たとしても、もったいない気がします」


 そうなん?と言わんばかりの、びっくりしたような表情を菜優は顔に浮かべます。そしてそのままコアトルを、次いで腰に携えた剣を見やりました。なんだかそわそわわくわくしてしまい、眼前まで持ってきて少しだけ鞘から抜いてみました。するとすぐさまあの胃をぐるぐるかき混ぜられたような、気持ち悪い感覚に襲われだしたので、すぐさま鞘に納め直しました。


「あー気持ち悪う。こんなけでもこんなしんどいんやな。これが使えやんとなると…またあんな犬に襲われたらなんともならんやんな。うちに…いや、あの洞窟にすら帰れやんやん…」


 脂汗を垂らしながら、落ち着けるように大きく呼吸を繰り返します。息は落ち着いても心がしょんぼりと落ち込んでしまう菜優を、励ますようにコアトルが言葉を紡ぎ出します。


「急いては事を仕損じますよ、ナユ。果報が来る準備は出来たのですから、あとは寝て待てば良いのです。そうだ。市場に行きませんか」


「お、ええな。あれ?でも今、お金無いで、私」


「ものの値段を知っておかねば、いくら稼げば良いかの算段もつかない。そうでしょう?」


「なるほど。で市場って…ああ、あれか」


 菜優が見つけたのは、立ち並ぶいくつかの天幕と、そこをそぞろに歩く人だかりでした。寄ってみると案の定、様々な品物がその天幕の下に並べられていました。品物にはTによく似た記号と数字が書かれた札が隣に置かれたり貼られたりしていました。


 市場広がる喧騒が、二人の周りを制圧しています。ひっきりなしに、

―うちのりんごは安いよ!

だとか、

―お土産に樽なんてどうだい?

などと、呼び込みたちの張り合うような声が響き渡ります。


 その中で、みかんが三個で九八エカトだよ、と言っている声が聞こえました。菜優はいつの間にか右のみみたぶに張り付いていた、コアトルにそっと訪ねてみます。


「ねね、エカトってなに?」


「お金です。〇.九八ティミと書かれていたらば、それを九十八エカト、と読みます。百エカトで一ティミに、多くの場合は両替出来ますね」


「なんか、ドルとかセントみたいやな」


「そのようだと、小耳には挟みますね」


 ということは、あのみかんは三個で大体九十八円くらいかな?かもな?と想像がつきました。けど、それが高いのか安いのかは、菜優には想像がつきません。


 市場をしばらく歩いているうちに、ファンタジーな世界らしい武器が立ち並ぶ市を見つけました。しかし、ナイフや小さな球のようなものしかなく、菜優のイメージするような大きな得物―ハルバードやツヴァイハンダーとか―は見当たりません。


 そのうちの一つ、丸い小さな球のようなものを見て、コアトルは菜優に耳打ちしました。


「ナユ、クラッカーがありますよ」


「クラッカー?パーティとかでいっつも使う、ぱーん、って鳴らすアレ?」


「はい?ナユの故郷のパーティでも、毎回モンスターが出るのですか?ナユはモンスターとは無縁な国から流れ着いたと思ってましたが」


 二人はきょとんとしたような顔を、お互いに向けました。菜優が小首を傾げたり、コアトルがぐるぐる考えを巡らせているうちに、菜優が思い出したように口をつきます。


「あー!そうやそもそもここ日本やないやん。日本でクラッカーと言えばお祝いに使う、小さくて三角いやつなんやんな。こう、紐を引っ張って、ぱーんって鳴らすのん」


「ほほう、これはまた一つ勉強になりました。賑やかそうで良いですね」


「やろ?これもそんな使い方出来るんかな」


「機会があれば、試してみましょうか」


 などと二人は会話を花咲かせ、店先に並んだクラッカーのもとに寄りました。でも、ここで言うクラッカーとはいわゆるかんしゃく玉のことで、大きな音を出してモンスターや野生動物を怯ませる為に使うものです。大型動物ですら驚かすほどの大きな音を出す代物なので、パーティなんかで使えば…どうなるかは予想が立ちそうなものです。


 値段は十個のセットで一.一九ティミだそうです。相場感はまだ把握出来ていない菜優ですが、百十九円くらいならすぐに稼げそうな気がして、菜優は少し気楽な気持ちになりました。


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