④:挑戦
それからも私たちは緑地公園で走り続けた。
休日の朝だけでなく平日にも、授業後すぐに集まっては夕焼けの中を揃って走った。
美千代は、こっちからお願いしなくても当たり前のように一緒にいて、隣で走り続けてくれた。美千代がいた方がなぜか私は長距離を走れるようになるから、言葉には出さなくても、彼女の存在は非常にありがたく思っていた。
そうして美千代の方も走ることに慣れてきて、マラソン大会の期日も近づいてきたある日、私はとうとう決心した。
「今日は、10キロ走るから」
「……うん! 私も追いつけるように頑張る」
突然の私の宣言にも驚かず、美千代は静かに体の前でガッツポーズをつくって応えてくれた。
これまでの私の最高記録は公園を4周。だいたい7キロぐらいだ。今日はそこに2周追加して、10キロ以上を目指す。前回4周走り終わった時の感覚から、自信はあった。
「美千代、無理しなくていいからね」
一声かけてから私は走り出し、美千代も隣に並んだ。
ちらと横を見る。美千代は真っすぐ前を見て、呼吸を整えながら、もう私の方を向いてはいなかった。
真剣な彼女の表情を盗み見ながら、私は心の中でもう一つの決心を固めていた。
今日までは気恥ずかしくて言えなかったけど、10キロ走りきることができたら、彼女に感謝の気持ちを伝えよう。
私が頑張ることができたのは、全部貴女のおかげなのだと。
前を向く。もうそれきり、美千代の方を見ることはせず、私も呼吸と歩幅に意識を集中していった。
長く、長く、いつまでも続くように感じられた道のりも、終わってしまえばあっという間に過ぎてしまったようだった。
途中何度か怪しくなりかけたが、間違いなく絶対に、6周目のゴールを切る。
その瞬間、私は地面にへたり込んだ。
手がしびれる。腕が伸びない。呼吸は何度繰り返しても満足な酸素を行き渡らせることができないようで、頻繁に上下する喉元は血の味を唾に混じらせた。
心臓が痛い。
体中が悲鳴を上げている。異常事態に狼狽し、何とか元の状態に戻ろうと細胞という細胞が躍起になっている。
だけど私の意識はそんなことを気にしている余裕などないほど、ただ目の前の事実を噛み締めることに必死だった。
走り切った。走り切った。走り切った!
「は、ハハハハッ」
ただそれだけのことに、表情が綻ぶ。荒い呼吸に混じって、私は笑った。
美千代にお礼を言わなくちゃ。
ようやく呼吸が少し落ち着いたころに、私は立ち上がって美千代の姿を探した。きっとスタート地点のどこかで体を休めているのだろうと思い、辺りを見渡す。
そこでやっと、事の異常さを認識した。
いつもだったら、先に休んでいた美千代が走り終わった私に駆け寄って、絶対に労いの言葉を掛けてきていたはずだ。それが、どうしてか今日は無かった。
理由は単純で、美千代がスタート地点のどこにもいない。
「……っ!」
まさか途中で倒れてしまったのかと心配になり、コースをもう一度辿ろうかと顔を上げた瞬間だった。
私の視界は、ゆっくりとだが確実に、今私が来た道から走ってくる美千代の姿を捉えたのだ。
もはや亀のように勢いを失い、激しく頭を上下させながら、それでもこちらへと近づいてくる美千代が、とうとう私の横を通り過ぎてゴールへと足を踏み下ろす。
状況に理解の追いついてきた私の脳が、それでもその認識を妨害するようにグルグルと目まぐるしく頭を揺らした。
受け入れがたい事実を確認するため、私は倒れこんで呼吸をする美千代を見下ろし、声をかけた。
「美千代。6周、走ったの?」
「ハアッ……ング、う、うんっ、ハア、ハア……まど佳ちゃん」
「何……?」
「走る、のって、フウ、楽しいね」
その時、私の中で何かが音を立てて崩れた。
「何それ……?」
つい今しがたまで感じていたはずの高揚感も、達成感も、全能感も、美千代への気持ちも、全部が無為に消えて、私の頭は真っ黒に染まった。
全部……全部無駄だ。無駄だった。全部、全部全部全部!!!
「まど佳、ちゃん?」
「ねえ、私のこと馬鹿にしてるんでしょ」
「そ、そんな……まど佳ちゃんはすごいって、私」
「聞きたくない、そんなの嘘だ!! だって……っ!」
気付いてしまった。
私にできることに価値なんてない。
10キロ走るなんて、誰にだってできることだ。それを今、美千代が証明した。
「楽しい、だなんて、そんなことが何で言えるの!?」
私は、走ることが楽しいだなんて思ったこと一度もない。ただ辛いだけだ。辛いけど、頑張って無理して続けてみただけ。
特別になりたかったから。
私だけの特別な何かが欲しかったから。
だけど、10キロ走ることなんて全く特別じゃなかった。
特別なのは美千代。辛いことさえ楽しめる、彼女自身が特別だったんだ。
自分のやってきたことが、全部無駄なあがきだったことが分かって、それを他ならぬ美千代に見せつけられて、目の前がぐちゃぐちゃになった私は。
「もういい……もういい!!」
「あっ!?」
走り出した。さっき来た道を逆に、元居た場所へと戻るように。
せめて、自分が何者なのか知らずにいることができた、あの頃の方がまだマシだったのではないかと後悔を引きずりながら。
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