③:練習

土曜日の朝、いよいよ本格的にマラソンに向けての練習を始めようと準備をしていたところに、スマホが鳴る。


着信の相手は美千代だった。


『まど佳ちゃん、今日は何時から練習するの?』

「は?」


話が見えない私は、思わず拍子抜けしたような鼻息を漏らしてしまった。




もう二月も後半とはいえ、未だ刺すような寒気が肌を刺す緑地公園の遊歩道。そこで、ジャージに身を包み、体を縮める美千代と合流した。


「ままままど佳ちゃんん、き、きき今日は、がが、がんばろうねえぇぇ……」

「いや、もう死にそうじゃん。どんだけ寒がりなの」


両手に軍手をつけて、青ざめながら拳を突き出す姿は何とも頼りない。こんなんで、走っている最中にぶっ倒れたりしないだろうか。私は心配だった。


そう。今日この緑地公園でのランニングに、美千代も付き添うと言い出したのだ。この調子では、私の方が彼女の付き添いみたいになってしまいそうだけど。


私のマラソン大会のための練習に美千代が付き添う意味が分からず、私は一度は断った。しかし、思いのほか美千代の押しが強くしぶしぶ了承することとなったのである。


『いつもまど佳ちゃんには助けてもらってるから、今度は私がまど佳ちゃんを手伝う番だよ』


そんなことを、まるで決め台詞のように宣っていた。


だが、ランニングで一緒に走ることが手伝いになると思っている辺り、やはり彼女はズレていると思った。


慣れない美千代が一緒に走って、私がペースを乱したらむしろ邪魔になるとか考えないのだろうか。


軽くストレッチをして、体の準備を整える。何だか、一緒に走る人がいるというだけで、普段よりも体が熱くなるのが早く感じた。


「それじゃあ、行くよ」

「おー! 目指せ10キロ!」


鼻水を垂らしながら、いきなり美千代が無茶を言う。


そう言えば彼女には言っていなかったから、私はこっそりと、何でもないことのように白状した。


「いきなりそんな無理だから。今日は公園一周だけ」

「あ、そうなんだ。目指せ一周!」


どんな反応されるかドギマギしたけど、大して気にした感じも無くてちょっとホッとした。


公園一周は2キロにも満たないぐらいだ。私はいつも、そのぐらいでうんざりして止めてしまう。今日もきっとそうだろう。


私は、始めから諦めてしまっているのだ。


本当はもっと走らなくてはいけないのに。



美千代は意外にも、必死に私に食らいついてきていた。


だが、生粋のインドア派である彼女にはやはり無理があったようで、一周も終わりに差し掛かるころにはもう顔は真っ赤で、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになってしまっていた。


「ひぃ、ひぃ……ま、まど佳ちゃんは、やっぱ、ハァ、凄いよっ」

「ちょっと……ふぅ、美千代だいじょうぶっ」

「すごい、まど佳ちゃんはっ……ひぃえ、すごい……」


とうとうその場にへたり込んでしまった美千代を見下ろしながら、私は何だか妙なエネルギーが自分の内から湧き上がってくるのを感じていた。


何でかは分からない。だけど……もっと走れそうな気がする。


激しく呼吸し、肩を上下させている美千代に声をかける。


「私、もう一周してくるけど」

「うん……まど佳ちゃん」


美千代が顔を上げる。真っ赤な顔で、涙を浮かべたまま、私の姿すらきちんと視界に収まっているのか定かでない虚ろな瞳で、それでもはっきり笑顔を浮かべていた。


「がんばって」

「うん」


私は、走り出した。


さっきも走った道を、もう一周。さっき通った時よりも、辛い。


二週目だ、当たり前だ。


なのに、頭の中は普段よりもずっと透明に澄み渡っていて。道と、呼吸と、体温以外には何も感じられなくて。


その日私は、大体5キロぐらいを走った。

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