第9話  甘い生活

 もう何のためらいもない、大事なことを礼に伝えなければ。

「遅くなってごめん、チョコありがとう、すっごく嬉しかった」

 とびきりの笑顔で義人は言った。

「好きだよ」

 礼の眼が潤み、涙がこぼれる。

 ほんとに綺麗な涙だ、と義人はみとれる。

「ごめんなさい、僕、泣き虫なんです」

「初めて会った時も泣いてたね」

「そうでしたね」

 またふられちゃった、と涙をぬぐった。

 礼は義人が置いていったチョコを出してきた。あの夜、義人は口にすることなく逃げ帰った。

 一粒つまんで、

「はい」

 義人の唇に押し付ける礼。口に入れたそれは、深みがあり極上の味だった。

「こんなうまいチョコ、はじめてだ」

 満足げに微笑み、礼がキスをしてくる。

 舌が絡まりあい、チョコがとろけた。


 透明な朝日の中で、義人は目覚めた。

 胸の上に白い手が置かれている。礼だ。

 夢ではなかった。こんなことになるなんて、出会った頃はまったく。

 生まれたままの姿で義人は礼と抱き合っていた。

 義人の胸にもたれかかるようにして、まどろむ姿。

 礼が好きだ。

 こうなったことに、後悔はない。

 この白い指に昨夜は翻弄された。

 暖かい。礼は暖かい。

 抱きしめると、礼は目覚めて、

「おはようございます」

「おはよう」

 唇が近づき、何度もキスを繰り返す。

 今日も仕事だ、もう起きなくては。

 そう思いながら、礼から離れられない義人だった。


 夢のように楽しい日々が始まった。

 目覚めれば隣に礼がいる。

 会社までは三十分ほどで、体が本当に楽だ。

 夕食も一緒にとる。たまには「赤と黒」で飲む。

 今日子ママには、開店前に訪ねていって同居すると打ち明けた。

「礼くんは、なんとなくそうかな、と思ってた。男の人とここに来た事が」

 言いかけて、ママは口をつぐんだ。

 礼を振った男か、と、義人はいい気分ではなかったが、過去のことだ。

「上ちゃんとどうこう、なんて企んだわけじゃないのよ」

 いたずらっぽくママが笑う。

「本当かなあ」

 義人は疑いの目を向ける。

「どっちも辛そうだったからね。寂しい二人が仲良くしてくれたらって思っただけ」

「ふうん」

 礼はずっと無言だ。ここに他の男と来たことを俺に知られたくなかったのかも、と義人は思った。

 まるっきり気にならないと言えばウソになるけどさ。


 俺は、結婚に何を求めていたのだろう。

 美人でなければ嫌だなんて思ったわけではない。

 自分を認めてくれる相手と、あったかい家庭をつくりたい。安らぎが欲しい。厳しい世の中、防波堤のような、明日への活力になるような。

 笑いあい、励ましあって、喜びを分かち合い、悲しみを癒しあえる。そんな相手を、俺はみつけた。

 それは、礼という同性だった。そのことについて、義人は深く考えないことにした。とりあえず離婚へ向けて動きだそう。そのうち何かが変わるのかもしれない。

 葵から連絡があり、離婚届けはすぐに提出できた。

 礼と広い部屋に引っ越すつもりだが、余計な荷物はすべて処分した。少し窮屈だが、少しの間、礼の部屋で暮らすことにした。

 いつもくっついていられて、義人は満足だった。狭いながらも楽しい我が家、という感じ。

 礼のベッドと、何度か寝せてもらったソファベッドは同じ高さだと義人は知った。だからくっつければ二人で寝ても狭くなくなる、移動が面倒だが。

 以前の恋人たちと夜を過ごすとき、こうやってベッドをくっつけて、と義人は想像しかけて、やめた。

 過去なんかどうだっていいじゃないか。

 そう自分に言い聞かせる。

 礼と抱き合っていると、限りない安らぎを感じる。

 葵からは得られなかった、義人が心から求めていたもの。


 満ち足りていたが一つだけ、気になることがあった。

 お尻に触れると、礼はビクッとなる。義人はあわてて手をひっこめる。きれいな体を愛撫したい、その延長に過ぎないのだが。

 男同士は、そこを使うと聞くのだけど。

 その夜も同じだった。うっかりお尻に伸びた義人の手を礼は押さえて、

「そこはダメ」

 小さな声。

「ごめん」

「おかしいでしょ、ゲイなのに、お尻に触られたくないなんて」

 礼の声はふるえている。

「いや、べつに」

 正直、そこでどうこう、というのは想像できない。礼は望んでいないようだし。

「ごめんなさい。ちゃんと話します」

 闇の中で、礼が抱き着いてくる。しがみついてくると言った方が正しいだろうか。何かに怯えているかのようだ。


「知らない男に。空き家に、連れ込まれて」

「ん?」

「小学六年のとき。死ぬほど痛くて、気絶した」

 何を言ってるんだ、礼?

 義人は混乱し、礼を強く抱きしめた。

 呼吸が荒く、つらそうだ。

 礼は激痛に耐え、あちこちにつかまりながら帰宅しようとした。そこへ顔見知りの主婦が声をかけたのだ。

 不審の眼を礼に向け、

「どうしたの、血が出てるよ」

 半ズボンの腿から血が伝い流れていた。

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