第8話 旅の終わり
二月末日。義人は荒れていた。退社すると飲み屋に直行。
浴びるように酒を飲み、したたかに酔った。
もう何もかも、どうでもいい。
結婚して二年余り、なんとかやっていけたら、と努力してきたつもりだが、葵との仲は冷え込む一方だ。
今夜はどこかホテルに泊まろう、二時間も満員電車に揺られて帰る気にはなれない。
俺の居場所はどこなんだ。どこにもないのかも、な。
義人は絶望的な気持ちになる。
ふらふら歩きながら、浮かんでくるのは礼の笑顔ばかりだ。
ただの友達でやっていけるなら、そうしたい。
でも礼の指が書いた「すき」という文字は友情ではごまかせない、気づかぬふりはもう出来ない。
ホテルを探すつもりが、気づけば義人は、礼の部屋に向かっていた。
インターホンを押すと、
「はい」
こんな遅くに誰、と言いたげな響き。
泥酔した義人を前に、礼は無言だ。
「誰でもよかったって」
吐き捨てるように、義人は言った。
「え?」
「葵だよ。結婚相手なんて誰でもよかった。たまたま俺が最初の見合い相手、だったから」
そんな話あるかよ、と言ったとたん、涙があふれた。義人は礼にしがみつき、声を上げて泣いた。
誰かの手がやさしく背中をさすっている。だいじょうぶだよ、となぐさめるみたいに。
ひどい頭痛だ。
ああ、ゆうべ飲みすぎたんだ。飲まずにはいられなかった。
結婚なんて、誰とでもよかったって葵に言われて、むしゃくしゃして。暴れてやればよかった、でも葵の前ではそれすらできない、あまりに葵が恐ろしくて。そう、恐ろしいのだ、葵に対する感情は、それだけだ。
かあさん?
鼻孔をくすぐる味噌汁の匂い。
俺は実家にいるのか。
いや、違う。
ようやく目を開けると、誰かの後姿が見えた。
「おはようございます」
振り向いたのは礼だった。
俺は結局、礼の部屋に来てしまったのだ。
「おはよう」
どうにか上半身を起こす。ワイシャツを着たまま義人は寝ていた。
礼に泣きついた後の記憶が全くない。安心して寝入ってしまったのか。
恥ずかしいよな、礼の前で泣くなんて。
告白され、どうしていいか分からず逃げてしまった。そんな俺を追い返しもせず、介抱して寝かせてくれたんだ。
「よかったら、どうぞ」
礼が御椀を差し出す。味噌の香りがいっぱいに広がる。
「二日酔いにいいっていうから」
「うん」
味噌汁が体に染みる。豆腐とねぎ、義人の好きな具だ。少しずつ気分がよくなっていく。
きちんと出汁をとり、丁寧に作られてたそれ。
結婚後もインスタントのを、自分で作るわびしさだった。
「うまいよ」
酔っ払って深夜に訪ねた自分に、こうまでしてくれる。
礼には感謝しかなかった。
こんな甘ったれた、ダメダメな自分に、どうして。
まだ好きていてくれるのか。嫌われてはいないよな?
すっかり落ち着いて、シャワーを浴びる。
次第に明瞭になる頭で、義人は決断した。
葵とは別れよう。
さっぱりして着替え、チョコを渡しに来たときのスーツを着た。捨てられたかも、と思ったが、そんなことはなかった。開けただけでひとつも食べなかったチョコレートも、礼はとっておいてくれた。
緑茶を呑みながら口に入れてみる。極上の味だった。
「山で遭難したらチョコレートがいいって、わかるな」
食べたとたんに元気が出てきた。
「義人さんのチョコもおいしかったですよ」
泣きながら食べました、と小声で礼は言った。
ごめんな。でも、もう泣かせないよ。
義人は、まっすぐに礼を見た。
「葵とは別れる。今夜、帰って話し合うよ」
「そんな、急に」
「ずっと考えてた。やっと結論が出たんだ」
そう。たった今、やるべきことが分かった。
「明日、また来てもいいかな」
それを聞いて、礼はまっすぐに義人を見た。
「待ってます」
その言葉が義人を励まし、背中を押す。
葵は怖いが、ちゃんと離婚を告げよう。そうしなければ先に進むことはできないのだ。
その日の夜。
自宅マンションに帰り着くと、真っ暗で葵の姿はない。
ダイニングテーブルの上にメモがあった。
「離婚します」
と書いてある。
ああ、そうか。
義人は苦笑した。
無断外泊したら離婚だ、と宣告されていたのだった。
離婚届を用意してくれ いつでもサインする
そうLINEした、どうせ既読スルーだろうが。
続いて、礼に電話。
「話はついたよ。これから、そっちに行ってもいいかな。やっぱり今夜も泊めて」
礼は戸惑っているようだ。あまりに早いと思っているのだろう。それでも、
「はい」
と答えた。
義人は、衣類などをキャリーバッグに詰めてマンションを出た。次に来るのは離婚届けにサインする時だ。
上り電車はガラガラ。
反対側の、さっき義人が乗ってきた下りは、ぎゅうぎゅう詰めだ。背筋がぞっとした。
あんなのに二時間も揺られて通勤してきたんだなあ。
もう、あんなモノには乗らない。以前のように会社のそばに住んで、ゆったりと暮らすんだ。
最寄り駅に着いた。
キャリーバッグを引いているせいか、旅から戻ってきた気がする。長い長い不毛の旅から。
礼の澄むマンションに辿り着いた。
ドアが開いた。緊張したような例の顔。
「ただいま」
自然に口に出た言葉。礼の顔に笑みが広がっていく。
「おかえりなさい」
礼が抱き着いてくる。強く抱き返しながら、義人はようやく理解した。
そうだ、俺の帰る場所は、ここだった。礼が俺の家なんだ。
あたたかい体を、義人は力いっぱい抱きしめた。
しっとりとした白い頬を両手で挟む。
愛しさをこめて、礼の唇に唇をかさねた。
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