家族の接し方

 祖母が「お焼香について忘れた」、という話からもう三年ほどが経った。投薬治療の甲斐もあってか、病気の進行具合は恐らく通常よりも遅いはずだと思っている。

 しかしながら、私はあくまで「孫」という存在である。

 だが、ここで出てくるのは私の祖父である彼女の夫と、彼女の子どもである私の母とおじ二人だ。私の母はよく、祖母に会ったあと「今日は五分前のことも覚えていなかった。」「少し前のことなのに。」とよく私に話をする。恐らく「孫」である私と、「子ども」である母では見え方も考え方も異なるのである。

 私自身、もしも母が将来的に認知症になってしまったとき、今のように客観視が出来るか、と言われればそれは違う気がするのだ。これは恐らく「自分の親にはしっかりしていて欲しい」という心の叫びなのだと私は解釈することにしている。伯父は楽観視しているし、もうひとりの叔父はどうにか出来ないかと色々調べて「これを試してみよう。」という提案をしたりもする。これも、どうにか彼女を認知症になる前の状態に戻そうとする行動の現れではないだろうか。

 何度も書いてしまうが、現状アルツハイマー型認知症は治る病気ではない。きっとこれについて、彼らはしっかりと理解はしているはずだ。しかし、心がついてこないのだ。祖母は元来、お金の管理はしっかりしていたし、料理も毎食作っていた。先述したように孫達が遊びに来る週末には沢山の料理を作って待っているような人だったのだ。

 それでは家族はどう彼女に接するべきなのだろうか?

 私はきっと何も言えなくなってしまうだろう。母は時々、祖母に対して言葉がきつくなるし、感情も覚えていないだろうとよく否定をする。だが私はそうは思っていないので、穏やかに否定せず話しかけるようにしている。何が正しいのか、誰にもわからないのだ。仮に本人にどう接して欲しいか聞いたとしても、言葉が二転三転するか或いは取り繕うかもしれない。

 だからこそ我々は彼女をよく見て行動する必要があるのではないか。

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