そのときどきを楽しむ
皆さんもご存じの通り認知症になると物事について、そのものを忘れてしまうということが起こる。だが、彼女らは本当に全て忘れてしまうのだろうか?どうにもそれは違うらしい。理性系に関する脳が萎縮するのであって、感情系の分野は最後まで残ると言われている。加えて脳に刺激が与えられることによって、良い意味でのストレスがかかるということは悪いことではない。
例を挙げるならば、これだろう。地方に住んでいる我々は車でレジャーをすることがよくある。私の祖母は昔から花が好きなので、車で少し行ったところにある花のある公園へ連れて行ったりするのだ。そのときはいつもより、調子が良いように思うことが多い。普段なら十分で忘れてしまうことを、十五分覚えていた。などだ。これはほんの小さな変化かもしれない。しかし、家族や本人にとってはとても喜ばしいことで本人も楽しそうなのである。
忘れてしまうことは確かに「普通」の世界観で生きる我々からすれば悲しいことだ。出来る限り長く覚えていて欲しいし、変わらずにいてほしいと思うものである。でもこう考えてはどうだろうか、彼女らは何事をも初めて体験したかのように楽しめる、特別な感性を手に入れたのだと。
そのときどきを一緒に楽しむことが出来れば、認知症を患う本人も周囲で支える家族も苦しくはないのではないだろうか。少なくとも私は、何度同じことを繰り返し言われようと、教えられようと、まるで初めて聞いたというように反応するようにしている。祖母が孫に教えたい、という気持ちを大切にしたいからである。そして私も一緒に楽しみたいのだ。
これがもし、もっと症状が進めばこんなことも言っていられないのかもしれない。だからこそ思うのである、そのときどきを一緒に楽しもう、一緒に生きようと。
しかし、ここで心配になってくるのは祖父のことだ。先述したように「薬で治る」という風に伝えたのは祖母に対してだけではなく、祖父に対してもなのである。しかし彼は治らないことを察し始めている。元々勝気な性格の祖母は祖父が温和な性格だからこそワガママを言ったりすることが出来ているが、彼のストレスは測り知れないだろう。少なくとも男尊女卑の時代を生きてきた人とは思えない祖父なのである。昔こそ台所には立たなかったが、最近では料理などの家事をやろうとしたりする素振りも見せる上に、祖母を心配して彼女を家に一人で置いておかないようにしたりしている。よく気のつく人、という形容詞が当てはまるかもしれない。
実際、私と祖父が二人きりになったときには思い切り祖母に対しての愚痴を言ってもらうようにしている。
この前とあるメディアで言っていた「一番つらい認知症の家族は、今まで何もしてこなかった高齢の夫が認知症になった高齢の妻の面倒を見ること。」という一節も思い出す。
とにかく、祖父のストレスについては喫緊の問題かもしれないと私を含め、家族は思っている。一番側に居るからこそ、見える問題は大きく不安も強いのではないだろうか。
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