第8話 夜明けの朝食

 彼は大学から本当に近い二階建てのアパートに住んでいた。大学に通う道沿いにあるアパートで私が何度も通り過ぎた建物だ。大学からの距離は歩いて三分もかからないだろう。彼がしょっちゅう大学の研究室にいるのも納得がいった。


「ちょっと待っててね」

 彼は鍵を開けて、暗い部屋の中に入っていく。外はまだ雪が降っていた。少し前は小粒な雪だったのに、今はもう綿のような雪が降っている。優しく地面に降り注いでいく景色を見ていると、ぼんやりと綺麗だなぁと思った。そう思えることが不思議なようだ。さっきまで、こんな余裕もなかったのに。


「どうぞ」

 扉が開いて彼がそう言った。私は「お邪魔します」と彼の部屋に入る。いかにも下宿生といった感じの部屋だった。とにかく狭い、人が二人立ったらいっぱいの台所兼廊下。テレビと机とベッドを置いたら後は人が一人寝れる程度のスペースしかないリビング。

「ベッドにでも座ってくれたらいいから」

 そう言われるままにベッドに座ってしまうほど、その部屋は狭かった。ものが溢れて足場がないとかそういうことではなく、単純に面積が小さい。むしろ部屋は適度に片付いていたし、生活感がないわけでもなく、部屋の端に積まれたプリント類以外は無難な一室だった。

「何か見る?」

 と彼がリモコンを私に手渡した。テレビはクリスマスの特番や、街の様子など、そういう世間のクリスマスの話で溢れている。私はチャンネルをぽちぽちと変えながら、最終的に無難なニュース番組を見た。やれ誰が殺されただの、逮捕されただの、ろくでもないことばかりが流れていた。今日は聖夜だというのに。


「晩御飯食べた?」

 私は「食べてない」と答えた。


「じゃあ、今から作るよ。僕も何も食べてないんだ」

「朝から?」

「まさか。昼からだよ。ずっとあそこに立ちっぱなしだったから」


 彼が台所で料理をする音が聞こえてくる。包丁がまな板をうつ音、湯が沸く音、シンクにモノがおかれる音。ニュースを見ていたけれど、その音の方が私の耳にはよく入った。音を聞いている限り、彼の手際は随分と良さそうな気配を感じさせる。意外だったけれど、下宿で四年も料理をしていれば、上手くなるのも当然のように思えた。


 シチューの匂いがしてきて、私はテレビから視線を外して台所を見た。

「あ、嫌いな食べ物ってある?」

 今更なことを彼は私に聞いた。私は「ないわ」と答えた。

「よかった」

 彼が作ってくれたのは、ちゃんとブロッコリーが入ったクリームシチューだった。二人でいただきますと言って、隣同士で黙々と食べた。彼はテレビを見ながら食べていたし、私は何故か泣きそうになってしまった顔を隠すように食べることに集中した。

 でも、彼はティッシュの箱をこそこそと私の傍に置いてくれた。取ったら負けだと思ったけど、なんで意地張ってるんだろうと思って、ティッシュを目に当ててぐずぐずと泣いた。

「食器洗いは私にやらせて」

 彼は「助かるよ」と言って、洗剤の場所や洗い物の置き場所を教えてくれた。

「じゃあ、悪いけどよろしく」

 

 そう言って彼は戻ってベッドに座りながら、バラエティー番組を見ていた。冬場の台所は思ったよりも寒かった。出てくる水も冷たくて、手がかじかんできた。

食器の音と、水の音。隣から聞こえてくるテレビの音。ちらりと部屋を見ると彼の横顔が見えた。不思議だった。部屋でテレビを見ている彼がいて、台所で食器を洗っている私がいること。それ自体がすごく不思議なことで、素敵なことのように思えた。

私と彼はまだ体を重ね合ってもいない。なのに、心から染み渡るような暖かさが私を満たしていった。

「ねぇ、今日泊まってもいい?」

 食器を洗い終わったあと、私は特に何も考えもせずに聞いていた。彼はまたあっけにとられたような、困惑した顔をしていた。部屋全体を指すように腕を広げて、

「すごい狭いよ?」

 と彼は言った。また構わないわと言いかけて、飲み込む。

「大丈夫。それでもいいから」

 彼は頭をかきながら、「仕方がないか」と呟いた。

「じゃあ、コンビニ行こうか」

「お酒でも買うの?」

 本当はこの時、避妊具でも買いに行くのかと思っていた。

「違う違う。歯ブラシがいるでしょ?」

 私はあっけにとられるのも忘れて、笑ってしまった。


 二人で買い物に行った。彼は傘を一つしか持っていなかったから、相合傘をした。雪が外灯の光にさらされている部分だけ見えた。近くのコンビニには、外から見てもまだ学生が多くいるようだった。

相合傘して私たちに何度か視線が向けられるのがわかる。でも、私たちは自然だった。相合傘をしていることが私にとっては自然なように思えた。けれど、彼は恥ずかしかったのか少しそわそわして早足になった。


 コンビニもクリスマス仕様になっていた。置き場がないのか、サンタクロースは不在だった。緑と赤の飾りがちらほらと添えられていた。彼が他の商品を見ている間に、私は歯ブラシと下着を買った。彼は飲み物のコーナーを見ていて、コーラを手に取っていた。


「買うもの決まった?」

「えぇ、だいたい」

「他に買いたいものは?」


 私はコンビニを見渡した。飲み物コーナーの隣、一つだけ残った小さなホールケーキがあった。私たちのために残されたようにそこにあった。クリスマスのホワイトチョコカードが乗っているだけの、真っ白なクリームホールケーキだった。


「これ、食べない?」

「まぁ、せっかくのクリスマスだしね」


 彼はそう言って、ケーキを手に取った。私たちは別々に会計した。そして、また傘の下に二人で入って、彼の下宿に帰った。

「ただいま」

 彼は誰もいない部屋に言った。つられて私も、ただいまと言った。

「おかえり」

 当たり前のように彼に返されて、この狭い部屋がまるで私の家のように変わった。自分の下宿に戻ったときよりも、帰ってきたという感情が強く溢れる。次第に目尻が熱くなって、彼のことがとても輝いて見えた。

 私は幸せだと思った。誰かと恋愛関係を持っているわけでもないのに。ついさっき、宮部さんとの関係がなくなったばかりなのに。私は男友達とこうして、ただいまとおかえりが言い合えるこの関係に、これ以上ないほどの幸せを感じた。


 小さなホールケーキを二人で半分に分けて食べた。クリームシチューを食べたばかりだったけど、甘いものは別腹に入っていくようだった。

 ふと、今日の最後のお客さんのことを思い出した。彼女はケーキを二つ買っていったけれど、今頃誰かと一緒にこうして食べているのだろうか。そうであればいいなと思いながら。

「おいしいね」

 と二人で言い合って食べた。別にカップルでもなんでもないのに。

『あなた、ちょっと変よ』

 サチが言った言葉を思い出す。私って本当に変だったんだとその時に身に染みるように感じた。私はカップルだとか愛人だとか、そんな関係にときめくことがない。カップルになるのは面倒だし、愛人でいるのはとてつもなく辛い。逆に、こうして男友達と一緒にいることが、私を幸福にさせてくれる。


 ケーキを食べ終えて、お互いに交代でシャワーを使った。いつもなら、裸になった男がベッドの上で待っているようなものだけれど、彼は服を着て床に寝袋を敷いていた。

「ちょ、ちょっと服着て! 服!」

 慌てて彼が視線を逸らした。私は裸で浴室から出てきてしまっていた。おかしくてつい笑ってしまった。彼が私から目を背けるように座っている内に、私は服をゆっくりと着た。

「もういいよ」

 私が言うと彼は、ほっとした様子でこちらを向いた。

「さて、歯磨きして寝よう」

 またお互い別々で歯磨きをした。テレビはついたままで、深夜の刺激的なバラエティー番組が流れていた。私たちはそれをぼーっと見てから、電気を消した。彼は寝袋で、私は彼のベッドで寝た。私は寝袋で寝るつもり満々だったのだが、

「女性を床で寝させるわけにはいかない」

 と言って聞かなかったので、ありがたく使わせてもらうことになった。彼はすぐに寝息を立て始めた。静かな寝息だった。思えば、一緒の部屋で別々に男性と寝ることは父親以外では初めてのことだった。ベッドから下をのぞくと、緑色の寝袋から出た彼の顔が、カーテン越しに透き通ってくる光でぼんやりと見えた。疲れているようでもあったし、満たされているようでもあった。


 ふと、彼が目を覚まして目が合った。時間が止まったような、そんな気がした。そして、これから何かが起きそうなそんな刺激的な予感が私の中を駆けまわった。

「おやすみ」

 彼は、言い忘れていたことを言えたとばかりに満足そうな丸い笑顔を作って、また静かに寝息を立てた。私は彼から視線を外せずにいた。彼はなんて誠実なんだろう。友達として、その関係に対して頑なに誠実だった。感情や雰囲気、抗えないような本能的予感にすらも、彼は流されなかった。


『それって不誠実じゃない?』


 サチの言葉だ。私は不誠実だったのかもしれない。けれど、彼らも不誠実だった。私を傍に置いておきたいだけだったり、身体だけが目当てだったり、愛人にしといて愛してはくれなかった。だから、私は彼らに対して不誠実にならざるを得なかったのではないか。

 だって今、私の中にはこんなにも彼への誠実な気持ちが溢れているのだから。彼となら上手くいくと思った。お互い就職して離れ離れになったとしても、どこかにデートに行って、身体も交わして、結婚して、きっといい子が生まれてくれる。そんな幸せな予感をベッドの中で感じていた。薄暗い部屋の中で、ゆっくりと瞼が落ちていく。

暖かい希望を胸に抱きながら。


 朝。目が覚めると、部屋にはいい匂いがしていた。朝食の匂いだ。既に彼は寝袋をたたんで、台所で料理をしていた。私はベッドの暖かみに名残惜しさを感じながらも、肌寒い部屋にのそのそと起きた。

「おはよう。まだ暖房付けたばかりだから寒いでしょ」

 彼は私が起きたのに気が付いて、そう言った。私はおはようとだけ返した。それだけで、満たされていく私の心。自分に足りないもの、自分が求めていたものはやっぱりこれだったんだと確信した。

「もう少しでできるから、待ってて」

 私はテレビをつけて、ニュース番組を見ていた。クリスマスの話題がどんどん流れていった。今日の天気は晴れで、気持ちのいいデート日和になるとニュースキャスターが言った。台所で料理をしている彼の背中を見て、いろんなことを夢想した。そして、これからそれを叶えていくのだと。

「おまたせ」

 彼が運んできたのは、ご飯、目玉焼き、茹でたほうれん草、みそ汁だった。シンプルな朝ごはんは余計に自分の家のことを思い出させた。

「いただきます」

 と二人で手を合わせた。彼は目玉焼きを食べながら、

「僕、目玉焼きを二つ焼いたのなんて初めてだよ」

 そう言って、幸せそうに笑った。

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夜明けの朝食 チャガマ @tyagama-444

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