第7話 特別な日の夜に
夏休みが明けて、バイトにも戻った。私が長期の休みを取ったからか宮部さんは暫く私を片付けのシフトに入れなかったし、当然のように夜も誘われることはなかった。
宮部さんへの恋心が消えたわけではない。けれど、もうあんな辛い思いはしたくなかったし、宮部さんの家族のことを考えると、自分のしていたことの罪悪感がじりじりと私の良心を蝕んでくる。そうした意味もあって、誘われないことに正直安堵していた。
ハロウィンの季節になって、バイトも忙しい時期になった。夜のことなんてそっちのけで、宣伝のポスターやハロウィンの装飾を作るなど、忙しなく働く日々。
働いて何も考える暇がないときが、一番心に余裕のある時間になっていた。そして、仕事が終るたびに、もうこのまま宮部さんとの全てを切ってしまおうと思った。
「え? 今月で辞めちゃうの?」
宮部さんは困った顔で言った。私が十一月いっぱいでバイトを辞めさせてほしいと言ったからだ。もう宮部さんとの関係もどうにかしなければいけないと思っていたし、クリスマスまでこの店に居続けると聖夜の空気に流されてしまいそうな自分がいる。
果たして宮部さんは了承してくれた。とても快くといった風ではなかったけれど。それでも、最後の勤務の日には送別会を開いてくれた。場所は近くの飲み屋のチェーン店だった。
バイトのおばさん達からは沢山の労いや励ましの言葉を貰った。なんだかんだ四年間も一緒に働いてきた人たちだ。頼れる仕事仲間でもあったし、良い話し相手でもあった。私より後に入った後輩の女の子たちも元気に送別会に顔を出してくれた。そう考えると、私はとても素晴らしい場所にいたような、そんな気がした。
宮部さんとの関係で離れようと何度も思っていたあの場所が、急に愛おしい温かい場所のように見えて、寂しさがこみあげてくる。最後に宮部さんから花束を受け取って、みんなから拍手を貰った。その時は宮部さんのこともさっぱり忘れて涙が出た。その涙は温かいまま頬を伝っていく。
バイトがなくなると私の日常は一層淡白なものになっていった。当然と言えば当然で、授業もなにもない日々になってしまう。特にすることもなかったので、久しぶりに大学に顔を出した。知り合いの顔を探したが、なかなか見つからなかった。
ただ研究室を覗くと、相変わらず松本くんがぶつぶつ言いながら作業をしているだけだった。
サチのことを思い出して、いつも通っていた喫茶店にも訪れてみたが、気配すら感じない。ショートケーキとホットコーヒーを頼んで、窓の外を見ていた。
窓ガラス越しに何番目かの彼氏が知らない女と手を繋いで歩いて行く。
私が全く別の世界に取り残されたような、変な気持ちになった。
◇
クリスマスの日はあっという間に近づいてきた。彼氏はいない。でも、そのことで何かを喪失したような気持にはならなかった。別に就職するまでは暇なのだし、実家に帰ってもいいなと思っていた。
二十二日、クリスマス・イブの前々日。宮部さんから連絡がきた。二十四のクリスマス・イブの日に入る予定だった子が急に来れなくなって人手が足りないということだった。
『バイト代は出すから、代理で来てほしい』。
私は断りたかった。
「はい。わかりました」
携帯電話の向こうで「ありがとう」と声が聞こえて、はっとした。自分は何をしているんだろうと、すぐに後悔が頭を駆け巡る。
「じゃ、よろしくね」
思考がまとまらない内に、電話は切れた。静かなアパートの部屋の中で、ツーツーという音だけが流れた。クリスマスのバイトだ。あまりいい予感はしなかった。
宮部さんが根回ししたかのように、おばさんからも電話が来た。
「来てくれると本当に助かる」
本当に感謝しているみたいな声で、そう言われた。もうその日のバイトを断るという選択肢は私の中からは消し去られてしまった。けれど、嫌な予感はぬぐい切れない。宮部さんが私を誘うことではなく、誘われた時にそれにのってしまいそうな私の心が何よりも恐ろしく思えた。
クリスマス・イブの日。特に忙しくなる昼からバイトに入った。
「お久しぶりです」
と一人一人に挨拶をした。みんな笑顔で私を迎えてくれた。その笑顔を見ると、やっぱりほっとする場所だと思えた。
「今日はごめんね。よろしく頼むよ」
宮部さんはそれだけ言って、作業に取り掛かっていった。そこからは、怒涛のお客さん捌きだった。次から次へとやってくるお客さんの相手をする。なんだかんだ人気店なんだなぁと、ふと呑気なことを考えているうちに、やることがどんどん回ってくる。
夜の七時を過ぎるとお客さんの数もぐっと減った。もう大体の人たちは予約の品を買って帰って、穏やかな明かりのついた部屋の中で家族や恋人と一緒にケーキを囲んでいる頃合いだ。店内には既にお疲れ様という雰囲気が漂っていて、家庭のある方々は制服から着替えて家へと戻っていった。
八時が近付いて、
「そろそろ片付けをしようか」
「はい」
私たちは片付けを始めた。宮部さんの目は揺れながらもそういう目をしていた。私は気にしない振りをして、やり過ごす。でも、向こうから言葉で誘われたらどうしようという不安が私を襲った。
「看板を片付けてきます」
私は避けるように外に出た。この辺りでは珍しく雪が降っていた。積もるというほどではないが、僅かに白い膜が地面にできているようだった。私はふぅと白い息をついて、看板を片付け始めた。
「あの、すみません」
声をかけられた。コートとマフラーで厚着をした若い女性だった。心なしか青白い顔をしていた。しかし、手袋をしていない手は赤く光っていた。
「はい?」
私はできる限り笑顔で答えた。それは女性が、なんだかものすごく悲しそうな顔をしていたからだ。どうしようもないような、それでいて何かに縋っているような。
「ショートケーキの予約をしていたんですが、今からでも受け取れますか」
もう閉店の準備は始まっているが、私はケーキを渡してあげたいと思った。少なくともこのままこの人を返すわけにはいかないと、私のどこかが思っているような気がした。
「少々お待ちください」
私は店内に入って調理器具を片付けていた宮部さんに、そのことを話した。
「わかった。準備するから、店内に入って待ってもらって」
私はあの寒い中、お客さん立たせてしまっていることを思い出し、慌てて店の外に向かった。お客さんは、ぼーっと放心したように降る雪を眺めているようだった。
「寒いですから、入ってお待ちください」
私が声をかけるとお客さんは頷いて、店内に足を踏み入れた。それから店内をゆっくり、ぐるりと見渡しているようだった。ショーケースに一つだけ残ったミニケーキに一旦目をとめて、そしてまたぼーっとしていた。今日来たお客さんたちとは全く気配が違う。その様子は私を不思議と不安にさせた。
宮部さんに呼ばれて、予約の品を受け取り、レジに戻る。
「お待たせしました」
お客さんは、財布を開けながらレジに向かって歩いてきた。そして、痛々しいような笑顔で、
「ありがとうございます」
と言った。たいていのお客さんなら誰でも言う言葉のはずがずっと重い言葉のように。彼女の雰囲気がそう私に思わせた。ふと、サチの顔が脳裏を過った。あの夢だけを見ているようなサチの顔の形。現実から目を離して、先の幻想だけを語っている時のサチの瞳、口の動き、雰囲気。
急にサチのことが不安になった。そんな時に彼女から距離を置いた自分に酷い罪悪感のようなものを覚えながら。
「いえいえ。今日は特別な日ですから」
励ますようなつもりで、なるべく明るく言った。彼女が「ありがとう」と言った顔は上手く作れてない笑顔だった。私はもしかして酷いことをしてしまったのではないかと、身体全体が熱くなった。ショートケーキの入った箱を抱えながら店を出ていく彼女の後ろ姿を私は暫く釘付けになって見つめていた。
「お疲れ様。さぁ、あと少し片付けてしまおう」
私たちは片付けを再び始めた。店の外の電灯を消し、シャッターを閉めて、店内に流れていたクリスマスソングを止めると、急に店内がしんと静まり返って、私は早く逃げ出したいような気持ちになった。宮部さんに何か言われる前に更衣室に逃げ込んだ。私服に着替えて、制服をたたむ。またこの制服を返すためにここを訪れる必要性があると考えると、嫌だった。
更衣室を出ると宮部さんがいた。私はびっくりして、更衣室のドアに背中が当たった。宮部さんはぼそぼそと言った。
「妻が、疑ってるんだ。まだ」
宮部さんは黙った。私は何を言えばいいのかわからず黙っていた。ただ心の中では知ったことではないと思っていた。
「だから、最後。これが最後なんだ。だから――」
宮部さんはそういう目をしていた。ギラギラとした、性急で、私を求めている目。
「いや!」
私は制服を宮部さんに投げつけて、裏口のドアに走った。足音は追いかけてこなかった。裏口の扉の前でわずかに振り返ると、制服を取りこぼした店長が、ただ下を向いていた。私は扉を閉めて、また走った。白い息を吐きながら、クリスマスに染まる道を走った。雪がわずかに積もって、無数の足跡が付いていた。
どこもかしこも男女ばかりだった。公園のクリスマスツリーが目の前に見えた。青と白の鮮やかなイルミネーションが目に染みるようだった。
どこにいても耳に触れるクリスマスソングよりも、車道でかき鳴らすエンジン音の方が心地よく感じた。
私はクリスマスツリーを遠巻きに見られるベンチに座った。心臓の音が体の中から耳まで聞こえてきた。息も切れて、落ち着くまでにしばらく時間がかかった。
呼吸が整ってくると、代わりに涙が出てきた。目尻がじんじんと痛む、熱い涙だった。私には分からない。宮部さんに抱いてほしかったのか、そうではなかったのか。けれど、これで良かったと思う私もいた。私の気持ちがどうであっても、彼とは離れるべきなんだということ。それを理解していた私がいた。
けれど、それでも、愛されたかった。どうしても、その気持ちを止めることはできなかった。声を抑えようとして、嗚咽のようなものが出た。私は暫く泣き止むことができなかった。そうして、人の愛が恋しくなって、戻りたいという思いが強まっていく。私を愛してくれる場所に戻りたいという思いが。
もう一度、家に帰ろう。両親に会おう。そして、この心が整理されたら、また何かを始めようと思った。私はベンチを離れて歩き出した。すぐに実家に戻れるわけでもない。とりあえず温かいシャワーが浴びたかった。
街の喧騒に背を向けて歩いた。歩道の端で背を縮めるようにして、道行くカップルの逆方向に進む。誰も彼もが、愛し合っているようだった。
色んな形があった。腕を組む人、手を繋ぐ人、ペアルックの人、人目を気にせずに口づけをする人。嫌でも目に入ってしまう人々を私は避けるように歩いていた。しかし、楽しそうに話しをするカップルの一組が私を見て、ばっちりと目が合った。私はひどく恥ずかしい思いをして、早足になってその場を離れた。
歩道を行く人と目を合わせないように俯いて歩いく。早足になったせいか、看板に足を引っかけて雪の上に転んだ。あまりに悔しくて、もう泣きそうだった。
「大丈夫ですか」
と声をかけられる。私はものすごく小さな声で「大丈夫です」と言った。
「あれ? 何してるんだ、こんなところで」
はっと顔を上げると、生地の薄そうなサンタクロースの衣服を着た松本くんがいた。私は驚いて、黙ってしまった。逆に、なんで松本くんがここにいるのか、という疑問が浮かぶ。それよりも先に私は泣いていた。安堵していた。
これ以上ないぐらい。男友達と、こうして出会って、声をかけられて。
「どうした? 大丈夫か?」
私は首を振った。彼は私の様子に困惑していた。私の肩のあたりで手が宙に浮いて、どうすればいいのかわかっていないようだった。私は彼の左腕の赤い裾のあたりをがっと掴んだ。俯いて顔は見せないようにした。
「今日、時間ある?」
「え、バイトなら九時には終わるけど」
「じゃあ、待ってる」
と言って私は彼の赤い裾を離した。すると、彼と一緒に店頭でケーキを売っていた男性が彼に声をかけた。
「松本、今日はもうあがっていいぞ。給料はきっちり出してやるから」
「はぁ、じゃあちょっと待ってて。着替えてくるから」
彼は慌てて店内に戻っていった。彼の働いていた店は大学近くのケーキ屋さんだった。私は一人でケーキを売るサンタから少し離れたところの屋根の下で彼を待った。時々、通り過ぎる人々が私を見たけれど、もうその視線はほとんど気にならなくなっていた。
「おまたせ」
ごてごてと厚着をした彼が出てきた。大学からそのまま来たのか、重そうな鞄も背負っていた。彼は二言ほど店員と言葉を交わしてから、
「どこに行こう」
そう私に尋ねた。
「あなたの家がいいわ」
即答した。彼は驚いた顔をしたが、
「散らかってるから、片付ける時間が欲しいけど」
構わないわ、と言いそうになって自分が随分偉そうだと思った。急に今までの自分が恥ずかしく思えた。
「ありがとう」
と私は言った。
「近くなんだ。すぐ着くよ」
そう言って、彼は黒い傘を開いた。まだ白い雪が降っていた。彼は私をちらりと見てから、暫く目を泳がせながら言った。
「入る?」
「うん」
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