第6話 そこにある世界の形

「シズカちゃん、大丈夫? 先週休んでたから心配したのよ」


 久しぶり話した相手は電話越しのバイト先のおばさんだった。


「店長さんに聞いたら、体調不良だって言うじゃない。それで一週間も来ないなんて珍しいから、一体どうなったんだろうと思ってねぇ」


 本当に心から私を心配してくれている、優しい声だった。


「ごめんなさい。でも、最近ほんとうに体調が優れてなくて」

「いいのよ。ゆっくり休んでちょうだい。これからも休むなら私が店長に言っといてあげるから。今は夏休みでバイトの子もなんとか足りてるからね。ただ私が個人的に気になっちゃったもんだから。お節介かもしれないけれど」

「ありがとうございます。はい、じゃあまた」


 電話を切った後でも、おばさんとのやり取りの中で感じたぬくもりが心に残っていた。人の暖かみに触れたのは、本当に久しぶりだ。恋愛のような焦げるような辛さもなく、友人のような平べったい温度でもなく、心の奥がじんわりとほぐれていくような温もりがあった。


 急に人恋しくなって、実家に電話をかける。仮内定をもらった時以来だ。もう実家に戻ったのは二年も前だった。電話には母が出た。少し近況をはぐらかしながら話した後、今すぐ帰ってもいいかと聞くと、


「あんたの部屋なら、いつでも綺麗にしてあるよ」


 と言ってくれた。急に涙が込み上げてくる。それを私は何とか堪え、電話を切った。その日のうちに実家に行く電車に乗った。いつもは鈍行で三時間かけて帰るところを、特急に乗って一時間半で帰った。

「おかえり」

駅には父が迎えに来てくれていた。仕事帰りのスーツ姿だった。前に会った時と少しも変わらない穏やかな笑顔をしていた。


「ただいま。久しぶり」

「さぁ、帰ろうか」


 私は助手席に乗り、父が運転した。車内にはいつの時代かもわからないバンドの曲が流れている。車の中で父は私にとってはなんでもないことを話していた。最近、地区の神社の鳥居が崩れそうなんだとか、ご近所さんの畑にイノシシが出ただとか、田舎らしい話題ばかりだ。けれど、今の私にはそれぐらいの話題が心地よかった。

 家について「ありがとう」と言って車を降りる。父は「車を車庫に仕舞ってくる」と言って、そのまま車を運転していった。


「おかえり」

 玄関を開けると母が顔を出した。「ただいま」と言うと、母は私から何かを感じ取ったのか。電話した時点で既にわかっていたのか。

「お疲れね。今日はご飯食べてお風呂入って寝ちゃいなさい」

 そう言って湯気の立つ台所に戻っていった。

 手洗いうがいをしてから、二階の自分の部屋に行った。大きな窓が付いていて、まだ夕日の光がフローリングの床に射し込んでいる。日向ぼっこでもしようか、と床に寝転ぶ。

 私にはそこまでものを持つ趣味をしていなかったこともあって、部屋の中はベッドと学習机が置いてあるだけ。綺麗ではあるけれど、酷く空っぽのような気もした。でも、その雰囲気が心地よくもある。ベッドは今日干されていたのか、まだ太陽の匂いがした。窓越しの夕日に温められて、私はうとうとと眠りについた。


「ごはんよー」

そう一階から呼ばれて、ぼんやりと目を覚ました。もう外は暗くなって、部屋もびっくりするほど寒くなっていた。

 急いで一階に降りて食卓についた。お腹が空いていたのだ。晩御飯は私の好きなブロッコリーが入ったクリームシチュー。良く煮込まれた野菜たちが暖かいシチューに絡む絶品だ。三人で「いただきます」をした。窓から吹く夜の涼しい風を感じながら、食卓の周りはぬくもりに満ちているようだった。

 食事が終わった後も両親は私に特に何かを聞き出すような素振りは見せなかった。ただ話したければ話しなさいという態度を、ずっと維持しているように思えた。母が食器を洗う音を聞きながら、私は寝転がる父と一緒にプロ野球を見た。阪神と中日が試合をしていた。


 私は結局宮部さんのことは話さなかった。もともと話すつもりもなかった。ただ、自分を愛してくれる人の元に行きたいだけだった。


「ねぇ、お父さんってなんでお母さんと付き合ったの?」


 プロ野球を見ながら、私は聞いた。父は「よいしょ」と体を起こしてあぐらをかいた。


「なんでだったかなぁ」

「わからないの?」

「なんだか好きだなと思って、付き合って、気が付いたら結婚してた」


 そんな適当な、と思ったけれど、そういうものなんだろうとも思えた。好きになって付き合って結婚する。何も変じゃない。むしろ、そこに何か理由を求めているからこそ、私は「変」なのではないか。そういう風に感じた。

 野球の試合はもう九回裏になっている。バッターが打ち上げたフライをライトの選手がキャッチした。ゲームセット。


「あちゃ、また負けちゃった」


 これで阪神は、また三連敗らしい。


「おやすみなさい」

 そう言って、私は自室のベッドに、両親は敷布団のある寝室に向かっていった。

カーテンを閉めて、明かりを消して、暗闇の中でベッドに入る。すると、いろんなことがフラッシュバックしてきた。今まで辛かったこと、またバイトに行ったときの不安、過去と未来のマイナスな思考が頭を巡回し始めて、私は掛布団を縦に丸めて抱きしめるようにして堪えた。

 カーテンの隙間を縫って入ってくる月光が、私の背中を震わせるようだった。二つドアの先にある両親の寝室に逃げ込みたいと思った時には、私は既に枕を抱えてベッドから這い出ていた。

「一緒に寝てもいい?」

 恥ずかしかったけれど、両親が寝ている寝室に行って、素直にそう言った。

「困った赤ちゃんだね」

 そう母は言って、私を敷布団に招き入れた。父は黙って寝たふりをしているようだった。三人で入る布団は暖かかった。自然と両親とパジャマ越しに肌が触れた。それだけで、何かに守られているような気がした。


 宮部さん以外にも世界があるような気がした。

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