第5話 顔

 私はソファの上で目を覚ました。窓の外にはもう日が出ている。昨日、私はずっと泣き止まなかった。泣いたままソファに体を預けている間に眠ってしまったらしい。コートも脱がず、鞄は玄関に倒れたままだった。鞄を取りに行く気分には、全くならない。


 また少し転寝をして、気が付いたらもう昼間だった。洗面所に行って顔を洗おうとして、鏡の前に立つと、もうどうしようもないぐらいドロドロだった。顔色も、化粧も、何かも。

 洗面台で綺麗に肌をケアしたり、化粧を落としたりすることさえ面倒に思えた。ふらふらと風呂場に向かい、シャワーを浴びて、ボサボサになった髪を洗剤で綺麗にし、化粧も落とす。温かい水が夜中に冷えた体をじんわりとほぐしていく感覚が全身を包んだ。

 その間、私は目を瞑っていた。目を瞑っていると宮部さんのことを思い出す。二人きりの片付け、交わしあった愚痴、交わり合った体、私の気持ち。シャワーよりも熱い悲しみの感情が、頬を伝っていくのが分かった。

 そのまま全て、流れてしまえ。そう思った。


 お風呂から上がると、昨日のことが嘘みたいに落ち着いていた。固まっていた身体はほぐれ、感情的な高まりは静まり、淡々と自分の状況を確認していた。

 ソファに深々と座って、

「宮部さん」

 と呟いた。自然と、息をするように名前が出た。

 好きだったんだ。自分でも知らない内に、好きになってしまっていたんだ。

 馬鹿だな、私。

 捨てられることなんてわかってたのに。それでも、宮部さんに恋をしてしまうなんて。本当に馬鹿なことだ。そう思っても、宮部さんへの気持ちが変わるわけではなかった。

 この部屋の中で、声が聞きたいと思った。すぐに電話がしたいと思った。会いたいと思った。けれど、どれも行動へ移す気にはならない。ソファから立ち上がり、何人目かの彼氏がくれたコーヒーをドリップして入れた。

 コーヒーの香りが私をより一層冷静にした。私が淹れたコーヒーはかなり薄い。砂糖と牛乳を入れると、コーヒーの影はすぐに消えてしまった。

「ちょっと、甘すぎたかも」

 かさの減ったコップにコーヒーを注ぎ足す。それでも、コーヒーの味は薄いままだった。牛乳と砂糖の甘さだけが主張している。かさが減っては薄いコーヒーを注ぎ足した。ぼんやりとずっとそれを繰り返す。すると牛乳の味も薄まって、ただの水のような味になっていった。

 その時には、太陽が西の山に達しかけていた。



 あのクリスマス以来、暫くは私と宮部さんの夜の関係は全くない。そのことに、私は心なしか安堵していた。けれど一月末が近付いてきたころ、宮部さんがまたそういう目をしてきた。私の身体をなめるような、粘っこい視線。

 私は自分の中で揺れた。甘い欲望と自衛の意思の間で、自分の思いが行き来する。結果として、私は彼と一時間の夜を過ごした。誰もが流れ星を意図的に止めることができないように、この甘く激しい衝動も誰にも止められることはなかった。

 行為を終えて寒い外に出ても、私は心も体も火照ったように熱かった。今までの夜とは全く違う濃厚な一時間のように思えた。幸福だった。でもその分だけ不幸になるとわかっていた。

 どうしようもなく寂しかった。車に乗り込んでいく宮部さんを見ると、涙が出そうになる。

 あぁ、このまま違う人のところに帰っちゃうんだ。

 そう思ってしまうと、後はどうしようもない。車の出ていった小さな駐車場にただ暫く立ち尽くして指で目元を拭うことしかできなかった。

 こんなに悲しくて辛い恋愛を、私は知らなかった。まるで犬みたいだ。私は宮部さんに赤いロープの手綱を握られながら、一時間だけ散歩させられて、後は犬小屋に返される。そして、飼い主の家から漏れる光の中を想像して、どうしようもなくなるのだ。


 もう嫌だと何度も思ったけれど、毎週水曜日は、一時間だけの夜があった。いつものように身体を重ねる一時間。私はそれに縋るしかなかった。

 家に帰ってからは、もうここが悪い夢の中なのか、別の世界のように見えて、また来週水曜日の希望だけを見て過ごす日々が続いた。


 気が付けば大学四回生になっていた。やることはゼミと卒論と、少々の単位をとるだけ。大学に通う回数が大きく減ったのもあって、告白されることはもうなかった。   卒論を考えながら、バイトに通う日々。大学はほとんど私を縛らなかった。

 研究仲間の松本くんは、卒論がまとまってきても相変わらず研究に入り浸っているようだった。

「ちょっとまだ調べたいことが……」

 とぶつぶつ言いながら、図書館に行っては籠っているようだった。他の研究仲間たちは就活と卒論を先延ばしにし、あるものは単位が足りないと叫び散らかし、阿鼻叫喚の地獄絵図を校内に描いていたが、私は最低限ゼミに顔を出す程度で、彼らとの関わりも希薄なものになっていった。私の息抜きの場所がまた一つ消えていった。


 気付けば一人になっていた。バイトと宮部さんだけが生きがいのような感覚が、私をどんどんと追い詰めていく。そして、私や世界そのものが宮部さんの都合のいいように回ってきているような。

 もう、このままでもいい。

 私はバイトの日数を増やした。とにかく何もしない時間を過ごしたくなかったのだ。最近はふとした時には宮部さんのことが頭の中をめぐってしまう。

 けれど、どれだけバイトの時間を増やしても、私に夜がやってくるのは毎週水曜日の一時間だけ。


 暑い夏の日。昼間の太陽の温度をアスファルトがため込んで、夜にもむっとした空気が漂っていた。いつも通りに二人で片付けをしていたその日、私は彼に思い切って言った。

「今週末も会いたいわ」

 彼が調理器具を丁寧にしまっていく音がする。相変わらず落ち着いていて、静かだった。けれど、その空気は緊張していた。


「いつ?」

「もちろん、夜に」


 私が言うと、彼は少し黙った。カチャカチャと音が響く。


「無理だよ。僕には家庭がある」

「どうだっていいわ」


 その時、私は涙を流していた。そして彼を見ていた。そんなことどうだっていい。私はあなたと一緒にいたい。ただ、それだけを叶えて欲しかった。それ以外のことなんて、本当にどうでもいいことのように思えた。いや、本当にどうでもよかった。

彼は悲しそうで、それでいて申し訳なさそうな器用な顔をして私を見ていた。


「こんなつもりじゃ、なかったんだ」


 彼は下を向いてそう言った。そして私の横を通り抜けて、片付けを再開する。

私は真顔のまま涙を流した。もう嫌だ。こんなにも悲しいのに、こんなにも怒りがこみあげてくるのに、私がまだ彼のことを諦めきれていないのが、自分でも信じられないぐらいに嫌だった。こんな、こんなどうしようもない男に。

「帰ります」

 絞りだすようにガラガラの声でそれだけ言って、片付けも最後までせずに店を出て、帰路を辿った。家に帰っても一人だった。携帯には着信もメールも何もない。一人は嫌だった。けれど、誰かに会いたいような気分にもなることはできなかった。


『顔ばっかりよくてもさ』


「ほんと、上手くいかないのね。恋愛って」


次の週、一度も休まなかったバイトを全て休んだ。

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