第4話 悪い女

 大学三回生の夏。私は就職活動に明け暮れていた。特にやりたいこともなく、用事と言えばバイトとゼミぐらいだった。空いた時間は説明会やインターンに行って、そのうちいくつかの企業からは仮の内定をもらっていた。

 

 そんな日々の中、ゼミの後輩に告白された。今年に入って三回目だった。どうしてこうも私と繋がりたがるのか理解できない。彼氏と別れたら私の隣は空席同然で、誰でも座っていいと思われているようだった。単純に不快だ。

 告白してきた男共は、誰も彼もが一目惚れだと言った。もちろん私は拒まなかった。かといって、就職活動に明け暮れる私に男に構ってやる時間があるわけがなかった。


「付き合いが悪い」


 今年三番目の彼氏はうるさく言い、私のアパートにまで頻繁におしかけようとしてきた。まだ二回生である彼にとっては、私とは時間の感覚が全く違のだろう。めんどうになって夏休み前に早々に切り捨てた。しばらく、私の周辺をうろうろとしていたときもあったが、研究仲間の男たちが多少睨みを利かせてくれたのか、すぐに静かになった。


 それ以来、告白はされていない。

 秋学期が始まってからは、いつも以上に私の周りに人が寄り付かなくなっていた。元より人に群がられるのは嫌いだ。そこまで気にするようなことではない。


「だいぶ前からだけどさ、橋本さんなんか悪い噂流されてるよ。特に後輩の中でさ」


 図書館で資料を探しているとき、研究仲間の松本くんが「余計なお世話かもしれないけど」と言いながら、私にこそこそと耳打ちする。私はすぐに何のことか察したけれど、心底どうでもいいと思った。捨てられた男どもの負け犬の遠吠えにもならない噂を気にする必要性が私には全く感じられない。


「大丈夫よ。ずっと前からだもの。とっくに慣れちゃった」


 私は「だから気にしないで」というように松本くんに微笑みかけた。


「それならいいんだけど」


 彼は小声で言って、また黙々と資料探しを始めた。


 ◇


 私が男を拾っては捨てて、そんなことを繰り返している間も、宮部さんとの関係は健在だった。それどころか最近はやたらと親密になってしまっているような気がする。宮部さんの前だと何を話してもいいんだと思えるようになった。大学の男たちの話、色目を使ってくる薄汚い教師の話、バカ騒ぎだけしてまともに告白もできないチキンたちの話。

 自分を宮部さんに、男性の前にさらけ出すこと。今まで「そんなことはしない」とばかり思っていたことを私はしていた。不思議と、そんなに悪い気がしない。まるで、そうしていることが当然のような、それでいて素晴らしいことのようにすら思えてくる。不思議な解放感がそこにはあった。


「最近ね、噂されてるのよ」

「どんな?」

「私が悪い女って噂」


 自分で言って、フフと笑ってしまう。別に嫌でもなんでもなかったのに、急に嫌な

ことのように話しだしてしまった自分がおかしかった。

「酷いなぁ」

 彼は私の肩をゆっくり抱き寄せた。私は彼の胸に頬を摺り寄せる。頑丈な胸板、太い腕、それでいて彼の筋肉の動きは私を包み込むように安らかだった。

「でもいいのよ。結局は私に捨てられた生物が喚いているだけだもの。全然気にならないわ」

 本心だった。あんな噂も、昔の彼氏とかいう存在も、どうでもよかった。

「シズカはまっすぐだ。とても、ね」

 彼はうっとりするように言った。

「まっすぐ? 私が?」

 驚いた。変な私がどうしてまっすぐなのか、さっぱりわからなかった。


「あぁ、まっすぐで、周りを恐れない。みんな周りを気にして曲がっちゃうんだけど。シズカはそうじゃない」


 彼の言葉を聞いていると、私もそう思えてきた。そうか、私はまっすぐな人間だったんだと。それだけで、私の中が綺麗に洗われたような清々しいほどの爽快感が胸を包んだ。

 私と宮部さんの関係は大学三回生の冬まで続いた。お互いに愚痴を言い合いながら性を交わすだけ。それでいて夢のような時間帯でもあった。私が夜のシフトに入る水曜日、その閉店後は私たちだけの時間だ。

 クリスマス直前の水曜日にも、きっとベッドに誘われるだろうと思っていた。

 なのに。


「ごめん。明日は早めに帰らないといけない」


 直前の火曜日。帰ろうと裏口から足を踏み出した時にそう言われた。凍えるような寒さの中、私は薄暗い路地から彼を見つめる視線を動かせずにいる。ざわざわと騒がしい街の喧騒が消えて、耳鳴りが頭の中に響いた。


「どうして?」


 耳鳴りが収まった時、私は聞き返していた。私の唇が寒さからか、それとも不安からか、震えてしまう。震えた唇が発した私の声は、酷く弱々しい。

 裏口に立つ彼は渋い顔をして私を見た。彼が答えるまでの時間が異様に長く感じられる。


「妻がね、最近疑ってるんだ」


 その時、私は初めて宮部さんは他の女のモノなんだということに気が付いた。ずっと前からわかりきっていたことなのに。信じられなかった。わかってくれ、と言ってポンと肩を叩かれ、店長は店の中へ引き上げていった。

 わかってくれ? いや、ちゃんと私はわかっていた。わかっていたのに、さっきよりも異様に寒くなった外にとり残された私は、裏口の前から動くことができない。

 ショックだった。

 宮部さんが私よりも妻を優先したことではなく、そうされた私が落ち込んでいることにショックを受けたのだ。自分があれほど忌々しいと思っていた感情を、宮部さんに求めていることが許せなかった。所有して欲しいという、感情を。


 もう宮部さんとの関係を止めよう。その日の帰り道はただそれだけを考えていた。宮部さんは絶対に私より家庭を優先する。毎回、一時間でことを終わらせるのはそのためだとわかっていた。ちゃんと、わかっていたはずだ。

 宮部さんは私を所有していない。私はただのお遊びの不倫相手で、だからこそとっても楽だったのに。今更、所有して欲しいなんて。私は、私が馬鹿だったの?

 私は女性専用アパートの白い玄関に今にも崩れそうな足を動かしてたどり着いた。そしてその場で、明かりも付けずに泣いた。鞄を床に落として、立ったまま泣いた。暖房のついてない暗い部屋は、外よりも一層寒く感じられる。玄関の扉に背を預けた途端、膝から一気に力が抜けて、ずるずると座り込んだ。茶色いお気に入りのコートの裾で収まらない涙を拭いた。何度か嗚咽が漏れて、そこからは声を抑えることができなかい。

 彼の肌のぬくもりが一層恋しくなった。

「あ、あぁ……ううっ……」

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