第3話 一時間のクリスマス


 二回生の春が過ぎた頃、私も随分と仕事や大学にも慣れてきた。新しいバイトの子たちに仕事を教えることも増え、閉店の時間までシフトに入ることが多くなる。バイトは私にとって息抜きの時間だ。職場はおばさんやお姉さんばかりだったし、お客さんも女性が多いこともあって、男性の視線が少ない空間が自然と私をリラックスさせた。男の店長と男性バイトは厨房にいることが多いのだ。

 職場の人はみんな優しかったし、自分が役に立って、必要とされているという感覚が、純粋な自尊心を刺激する。

 ある日、「閉店時の片付けの時間もバイト代が出るから、良かったらシフトに入ってほしい」と言われ、片付けのシフトに入ることになった。次第に、店長の宮部さんと二人きりになって色々と話をすることが増える。初めは些細なことを話していた。私の学校の偏屈な教師のこととか、宮部さんのだらしない上司の話だとか、態度の悪い客のことだとか、主にお互いの愚痴を聞き合っていた。

 そんな日々がしばらく続いて、別に私はそういうつもりはなかったけれど、宮部さんはいつしかそういうつもりになっていて、ある日から自然とベッドに誘われるようになった。不思議と悪い気はしなかった。


「宮部さん、こんなことして大丈夫なんですか?」


 私は彼の隣で寝転がりながらいたずらっぽく言った。彼は口に人差し指をあてて、


「内緒だよ。私の家族と、他の従業員にはね」


 まだ三十代に見える顔を笑顔で光らせてそう言った。彼との夜はいつも一時間だ

けだった。非常に簡単な関係であるように思えた。


「今日はありがとう」


 と言って差し出された封筒を私は受け取らなかった。その代わりに、


「また抱いてくれる?」


 と誘うように言った。宮部さんは爽やかに微笑んで頷いた。そして、私の髪を手で掻き分けて静かに唇を合わせた。

 宮部さんは私を酷くは束縛しなった。今日は忙しいと言えば、無理に誘い込んだりはしなかったし、バイトのシフトも気を利かせてくれた。実家に帰省すると言って、二か月ほどバイトに行かず、会うことがなくても私は全く辛くなかったし、宮部

さんから連絡が来ることもなかった。


 なんて楽なんだろう!

 それが私の抱いたこの関係への感想だった。不思議と所有されているという感覚はなかった。そして、宮部さんにも私を所有したいという欲望はなかったように思う。きっとそういう面倒な所有欲や独占欲は家庭の女で満たしているのだろう。私たちの関係は淡々と、けれど充実して過ぎていった。



 私が宮部さんとの関係を築いている一方、サチは見違えるぐらいに変わった。大学二回生の秋のことだ。

 サチが恋をした。相手は一つ上のゼミの先輩で、誰にでも優しく良い人だという。目を輝かせて、そう言うのだ。

 私は正直、落胆していた。サチの恋愛に無関心な所が好きだったのに。これでは、どこにでもいる女と一緒だ。夢見がちで、白馬の王子が現れたと勘違いしている哀れな女。今目の前にいるサチは、私の中でそういう女にカテゴライズされてしまった。

 サチは恋心を抱いてからというもの、頻りに私に相談を持ち掛けてきた。けれど、サチは妄想の中で恋愛しているようだった。まだ付き合ってもいないのに、先の話を語りだす。


「デートにはどこに行けばいいのかしら。映画館? 遊園地? きっとどこに行っても楽しいよね」

「手をつないで歩いてみたいって思うの。普通に繋ぐんじゃないのよ。ちゃんと指を絡めて恋人繋ぎするの」

「子供も欲しいわ。彼はかっこいいから、きっと良い子が生まれるはずね」

「あ、結婚式にはシズカも必ず呼ぶわ。唯一といっていいほどの友達だもの」


 狂ってる、としか思えなかった。実際、サチは狂っていたと思う。サチはその男との妄想だけを考えるようになっていた。恋に恋をするとはまさにこのことを意味しているのだろう。私からしてみれば、まるで恋に縛られにいっているようだった。

 普通、恋をすると人は活き活きとしだすと言われている。化粧をしたり、洋服を整えたりして女性は一段と可愛らしく、男性もきちんとしたおしゃれをしだすもの。

 けれど、サチは全くそうではなかった。膨らんでいくのは妄想だけで、外見はいつもと変わらない、薄い化粧と派手ではない服装。最初は好印象だったそれらが、今では段々と不気味なものに見えてきた。

 私は意外にあっさりと、サチと縁を切った。


 サチは大学にあまり来なくなった。けれど、私には何の影響もなかった。せいぜいカフェに行く回数が減った程度だ。そもそも、サチがいなくとも大学は退屈ではなかった。授業はそれなりに面白かったし、仲の良い女性はサチぐらいしかいなかったが、交流のある男性ならそれなりいる。男性を拒まなくなると、恋愛関係にはならなくとも適度に良い友人が見つかることが分かった。

 なんとなく関わりがあった男友達と話している時間は、それほど苦ではなかった。彼らが私に気がないことがわかっていたことが大きい。とは言っても、ゼミの研究仲間程度の関係だった。そのぐらいの関係で留めてくれていた彼らに、私は密かに感謝していたのかもしれない。おかげでゼミの時間はとても過ごしやすく、有意義だった。


 サチとの縁を切って数日後、他大学の男性から告白された。一目惚れだという。サチのこともあって、付き合うことに嫌気が差したが、どうせ二か月で別れると思って付き合った。趣味がパチンコで、実力も伴わない画家志望のどうしようもない男だった。


「君の絵が描きたいんだ!」


 男に懇願され、最初はモデルとして座っているだけだったが、少し経てば「君のヌードが描きたい」と言って、度々私を裸にした。そうして、絵のことなんかそっちの気で、裸にした私を抱き始める。吐き気がするような奴だった。挙句の果てには、付き合って一か月ほどで、


「ちょっとお金が足りなくて、ちょっとだけ、ね」


 とへらへらした顔で言われた。当然、お金は一銭も渡していない。パチカスな上に酒癖も悪く、それでいて絵も下手くそ。正真正銘のハズレだ。もちろん、二か月も経たずに別れたが、その間も私と宮部さんの関係は続いていた。

 私は浮気をして、宮部さんは不倫をしている。二か月に満たない期間ではあったけれど、その状況に私は静かに興奮していた。どうせ別れる彼氏に対して、罪悪感なんて微塵も覚えない。むしろ、私に甘美な背徳感を味合わせるためだけにあのハズレは存在していたといってもいいほどだ。閉店の片付けを手伝いつつ、作業が終ればお互いにシャワーを使った。

 宮部さんの前で衣服を脱ぎ捨てることは、今の私にとっては非常に自然なことのように思えた。あの画家志望の全身を舐めるような視線と、宮部さんが私に向ける視線は全く違うような気がしていた。宮部さんは、私が服を着ていても裸であっても、必ず私そのものを見ている。そして、今日の服も素敵だとか、いつ見てもシズカの肌は綺麗だとか、当り障りのない普通の言葉を、適切に使って褒めてくれる。その心地よさは宮部さんにしか出せない。

 薄暗いダウンライトの光が満たす部屋の中で、私は彼氏ができたということを報告した。


「大丈夫。すぐ別れるわ」


 それを聞いて、宮部さんは自然な形で笑っていた。美しいケーキを作る彼の手が私の頬を撫でる。この時、私は自分の肌が卵のように美しくて良かったと心から思う。


「僕たちは恋愛に不誠実だね」

「不誠実?」


 サチの言った言葉が被って脳裏を過った。


「違うかい? 僕は妻を裏切って不倫している。シズカは彼氏を裏切って僕と浮気をしている」

「全然、不誠実じゃないわ」


 私はそう言って彼に口づけする。もしかしたら、彼は妻に対して不誠実かもしれない。けれど私は、自分が不誠実だとは思わない。あんな薄汚い生物に自分が誠実である必要性が全く感じられないのだ。だから、私がこうして宮部さんと一緒にいることは裏切りでもなんでもない。敢えて、言葉にするなら、


「お互いちょっと変なだけよ」


 宮部さんは少し声を出して笑って、すぐに私を抱いた。

 その年はクリスマスも宮部さんと過ごした。昼から閉店にかけて雪崩のように来るお客さんを捌き、閉店の片付けを手伝い、その汗をシャワーで流して、彼とベッドに一時間だけ寝転がって肌を重ねた。

 彼氏のことなんて考えもしなかった。ただ宮部さんのぬくもりと形を全身で感じていた。

 激務だけしか思い出になかったクリスマスが夢の一日のように変わって、過ぎていった。

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