たぬきはミャオと鳴く

三衣 千月

たぬきはミャオと鳴く

 母さんが家から飛び出して行った。

 キャリーケースに荷物を詰めて、「実家に帰らせていただきます!」と漫画やドラマでおなじみの台詞を残して。


 いや、まあ、あれは父さんが悪いわ。娘の私でも擁護できんわ。


「ねえ父さん、ほんとに出ていっちゃったよ?」

「気にするものでもない。しばらくすれば頭も冷えて帰ってくるだろう」


 わりと一大事だと思うんだけどなあ。母さんの荷物、ぱつんぱつんになってたし。


「論文を仕上げねばならんので書斎に戻る。母さんが心配なら、追いかけてやるといい」

「いや父さんが追いかけなよ。怒らせたの父さんじゃん」

「怒らせたのではない。あれは向こうが怒ったのだ」

「はー。立派な屁理屈ですこと」


 肩を竦める私をよそに、父さんは書斎に戻っていった。

 確かに研究論文が忙しい事は聞いてはいた。仕事は大事だけどさ。父さん、あれでも一応教授だし。


 父さんは世間一般で言うところの変人と呼ばれるカテゴリに入ると思う。

 緑のたぬき学会での最高権威を持っていて、合格率ひとケタ代が当たり前である緑のたぬき検定試験の特級で唯一満点を取ったのが父さんだ。

 大学では緑のたぬき学を教えていて、東洋水産研究室特別顧問の肩書も持っている。三日のうちに五回は緑のたぬきを食べ、緑のたぬき専用の箸を特注で作らせたこともある。


 だからまあ、普通の人よりもちょっとだけ緑のたぬきに詳しいんだけど。

 それにしたって、さっきのは全面的に父さんが悪い。10-0で母さんの勝ち。抒情酌量の余地もない。


 ざっくり言えば、仕事に根を詰め過ぎている父さんを、優しい優しい母さんが労ったワケで。

 そしたら父さんが邪険に返すもんだから、「わたしと緑のたぬき、どっちが大事なんですか!」と母さんが鋭く言った。

 間髪入れずに出た返事が「そりゃお前、緑のたぬきに決まっているだろう」ときたもんですよ。


 いやあ、阿呆だ。阿呆極まりない。いくら緑のたぬき学界隈で地位名声が高くとも、父さんの家庭内でのヒエラルキーは私よりも下に置くことを今決めた。なんなら家庭内で一番下にしてもいい。

 そんなに緑のたぬきが大事か。緑のたぬきは年がら年中いつでもどこでもインスタントに食べられるというのに。


 でもまあ、確かに母さんも母さんで直情的な性格をしてるから、父さんの言う通りに意外とすぐに帰ってくるのかも知れない。その時は、父さんの家庭内ヒエラルキーを少しだけ上げることを考えておこう。

 そうだな。3日以内に母さんが帰ってきたら、うちで飼ってる猫よりは上にしてあげよっかな。


 わたしはわたしで試験が近いから勉強しないと。母さんに承諾を求めたわけではないけれど、3日は待つと決めたんだからとりあえず日常生活に戻ろうと思う。試験は家庭環境の変化を考慮に入れてはくれないのだ。

 例えば登校中の通学路で見ず知らずの人が困っていたとして。それを助けて遅刻したとする。そんな時って、遅刻は遅刻として受け入れないとダメだと思うんだよね。人助けと遅刻は別の話だもんね。うん。



   〇   〇   〇



 試験勉強をしていると、いつの間にか夕食時になっていた。

 くう、と小さく鳴ったおなかの音でそれを自覚したので、自室を出てリビングへ向かう。ばったりと、書斎から出てきた父さんと出くわしたので、一緒に向かった。


「父さんも、今まで部屋に籠ってたの?」

「うむ。腹が空いたので緑のたぬきを食べようと思ってな」


 変なところで似た者親子らしい。

 リビングの隣、キッチンの戸棚には壁一面にみっちりと積まれた緑のたぬきがある。


「今日はどれにするか……」

「わたし、関西向けのにする。父さんは?」

「西日本も捨てがたいが、今日は北海道だな」


 西日本、関西、東日本、北海道。地域ごとに味の違う4種類の緑のたぬきがいつでもストックしてある辺りも、父さんの変人ぶりに拍車をかけている気がしないでもない。でも、慣れちゃったしなあ。これに関しては。


「地下に行って、水取ってくるね。えっと、関西と北海道だから、六甲の水と白川湧水でいい?」

「お前の分は好きにするとい。父さんには奈良の三里山湧水を持ってきてくれ」

「珍しいね。いつも北海道にはミネラル少なめがいいって言ってるのに」

「その日の気分で水を変えたっていい。緑のたぬきは、自由なものだ」

「ふうん。じゃ、わたしも今日は別の水にしようかな」


 全国各地の湧水や、企業と契約したミネラルウォーターを保管するための設備が地下にある。ワインセラーならぬ、水セラーだ。これが普通だと思ってたけど、どうも一般のご家庭には緑のたぬき用の水を貯蔵しているところはないらしい。家庭環境からくる刷り込みってのは恐ろしいよほんと。


 父さんいわく、緑のたぬきは水の違いで大きく変わる。確かに変わるとは思うんだけど、そこまで劇的な変化かって言われると、首を傾げちゃうな。せっかくだからわたしも奈良の水にしとこ。神仙洞の水がいいかな。すっきりしててわりと好き。


 父さんが作る緑のたぬきは、明らかにわたしが作るのと違う。この辺り、さすが緑のたぬき検定特級保持者だと思う。

 父さんはわたしの持ってきた水を見て、南部鉄器の鉄瓶とアルミのやかんを棚から出した。鉄瓶で沸かした水は鉄分が含まれてまろやかになるので、それだけでも緑のたぬきの味が変わってくる。これは、緑のたぬき検定3級で問われる知識だ。


「鉄瓶、父さんの方だよね?」

「そうだ。神仙洞を持ってきたなら、まろやかさよりもキレを楽しむんだろう?」

「うん。だからアルミのやかんでいい」


 2つを火にかけて、父さんは湯が沸く様子を真剣なまなざしで見ている。目で温度が分かるのも、緑のたぬき検定には必要な能力だ。

 沸騰した湯をそれぞれのカップに入れて、ふたの上にやかんを置いて重しにする。この工程が何より大事なのだと、父さんはいつも言っている。熱を逃がさないようにすることが、おいしい緑のたぬき作りには欠かせないそうだ。まあ、理屈は分かる。


 やかんの熱でプレスされたフタは、開けるときにぺりぺりと小気味良い音を立てる。しっかりと熱を閉じ込めて作られた証拠だ。

 父さんもわたしも、タイマーで時間を計るようなことはしない。その日の気温や湿度によって、完成までの時間は秒単位で違うのだから、3分はあくまでも目安のようなものだ。


 できあがった緑のたぬきからは、ふわりと湯気が立ち上る。真にうまくできた時には、立ち上る湯気が七色に輝くんだけど、今までに数回ほどしか見たことはない。父さんも、「あれは奇跡みたいなもんだ」って著書でも書いてた。


「父さんは、どうして母さんと結婚したの?」

「どうしたんだ、やぶからぼうに」

「なんとなく」

「……母さんとはじめて緑のたぬきを食べた時にな、湯気が輝いたんだ」

「奇跡じゃん」

「そうだな」

「母さん、戻ってくるといいね」


 父さんはわたしの最後のつぶやきには答えず、少し時間をあけてから「そば、湯伸びするぞ」と言っただけだった。



   〇   〇   〇



 それから数日、母さんは帰ってこなかった。

 けれど、わたしの中で父さんの家庭内ヒエラルキーが猫よりも下になるかどうかの瀬戸際になって、母さんは何事もなかったかのように帰ってきた。

 いや躊躇なく帰ってくるんかい。


「ただいま戻りましたよ。父さんにご報告があります」


 無言で、父さんは先を促す。いやまず謝ってもいいと思うよ父さん。


「山ごもりして、赤いきつね検定の特級を取得してきました。今から作りますね」

「……っ! あの検定に通ったのか」


 何やってんの母さん。

 わたしはこの時理解した。母さんも変人だわ。特級なんて普通、半年くらい勉強してようやく通るかどうかなのに。


「あなたが緑のたぬきの方が大切だと仰ったので、対等にならなくちゃと思って」


 いや、そうはならんやろ。

 母さんは荷物の中から赤いきつねを1つ取り出した。


 何気ない仕草で湯を沸かし、カップに入れてやかんを置いてふたをする。使った水は、市販の天然水だった。確かに所作の1つ1つは茶道や華道のように洗練されてたけど、緑のたぬき歴の長い父さんに敵うとは思えない――


「これは――!」


 ふたをぺりぺりとはがした瞬間、ふくよかな出汁の香りと共に、湯気が輝いていた。きらきらと、七色に。


「湯気が……輝いて……」


 母さん自身も、目を丸くしている。輝く湯気は、狙って出せるものではないのだ。父さんも驚きを隠せず、ハッと我にかえってつゆを一口飲んだ。


「どう、かしら?」

「……実にうまい。たまごの弾力が特に素晴らしい。君は、とても頑張ったんだな」


 その言葉に、母さんがゆっくりと頷いた。


「父さん。母さんに言うことあるんじゃないの?」

「ああ、その。うん、先日は……すまなかった」


 照れくさそうに言う父さんに、これまた照れて笑う母さん。うん、これにて1件落着ってとこかな。


「じゃ、わたし試験勉強があるから部屋に戻るね。ごゆっくり」


 猫を抱き上げて、リビングに夫婦水入らずの空間を作って自室に戻る。

 なんだかよく分からない結末になったけど、まあ、あれだ。終わりよければすべてよし、だ。


 試験用のテキストを開いて、ふと考える。

 わたしが今勉強してるのが、黒い豚カレー検定のものだと知ったら、2人はどんな顔をするんだろうか。父さんと同じ検定では面白くないと思って勉強を始めてみたが、これがなかなか奥が深くて楽しい。


 つまり、どうやらうちは親子3人そろって阿呆らしい。


 飼い猫のたぬきが、大きくあくびをして「みゃお」と鳴いた。

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