童子と高鬼。水が来るまで

「おじいちゃん…死んじゃった……」

 ミユの涙声に振り返ると、そこには突っ伏したままのおじいちゃん。揺さぶっても、ピクリともしない。側には重たい本が落ちていて、おじいちゃんの頭の下からは赤い液体がじんわり広がる。何だか現実の気がしなくて、ミユの泣き声を聴きながら、動かないおじいちゃんをぼんやり見つめていた。


 ……だけど、世界にとって僕たちなんて、ちっぽけなものに過ぎないんだと思う。


『――逃げて』


 突然、そんな声が聴こえた。

 でも、部屋には僕たち兄妹とおじいちゃんしかいないはず……。ふと窓へ目をやった瞬間、電撃が走るような衝撃を覚えて、僕は固まった。


 こちらを覗き込む大きな目玉。

 ぬめぬめと湿った黄色いそれが、窓の外からギョロっと僕たちを見つめていた。


『逃げて!早く逃げて!!』


 再び聴こえた謎の声に、ハッと我に返る。隣でしゃがみこんでいるミユの手を掴んで、僕はおじいちゃんの家を飛び出した。ただ闇雲に走った。もう、何が何だかわからないままに。


******************************


「はぁっ、はぁっ…、ルイ兄…っ!

 ……待って、ちょっと待って!」


 息が切れるほど走った頃。ミユに手を振り払われて、立ち止まる。振り返ると、膨れっ面の彼女は黙って足元を指差した。……彼女は足はドロドロだった。真っ白の靴下履いていたはずなのに、泥にまみれて茶色い毛糸の靴下みたいになっていた。

「ちょっと履くのも待ってくれへんねんもん……」

 一応、長靴を持っては来ていたようで、側の電柱に手をついて、裸足の足を突っ込む。

「うへぇ、裸足やと冷たい」


 ふと辺りを見渡すと、避難所から少し離れたところに来てしまっていた。


「おじいちゃん……死んじゃったん?」

 ……。僕はミユの言葉に返事ができなかった。

「……とにかく、大人に知らせなあかん知らせないといけないな」

 そうとだけ応えた僕は再びドキドキする。戻るためにはおじいちゃんの家の近くを通らなきゃいけないからだ。あの大きな目玉の主がまだ近くにいるかもしれないのに……。

 あれがカイジューさまなのだろうか。こちらを見つめる濡れた瞳は、話に聴いていたよりもずっと怖いものに思えた。

 そして、もうひとつ気になるのが……。


「……あのさぁ、何か…声が聴こえてんけど……。ルイ兄も聴いた?」

 三人しかいない部屋で聴こえた知らない声。いや、どこかで聴いたような気も……。と考えていたとき、またその声が聴こえた。


『逃げて!』


「そう、この声。……って、うわ!また聴こえた!ルイ兄も聴こえてる?」


 誰が言っているのか。何から逃げるのか。辺りを見渡していると、ふわりと潮の香りが漂ってきて、すぅーっと僕たちを覆うように大きな影が差した。目の前のミユの顔がサァーッと青ざめたのを見て、僕は恐る恐る振り返る。


 しっぽみたいに先の尖った太い何本もの腕。うねうね波打つように動くそれには、ぬめぬめとイボのようなものがびっしり生えていた。そして、その上に乗った大きな丸い頭には先ほど黄色い目玉。カイジューさまだ……。

 動けずに固まっている僕たちを見つけると、カイジューさまは威嚇するよ6本の腕を大きく広げて見せた。

 放射状に腕の生えた中心には、ギザギザした歯のある丸い口。……もう、カイジューさまというよりも、海底の魔物みたいだった。


『何してるの?!早く逃げて!』


 再び声が頭に響いて、僕たちはスイッチが入ったように、駆け出した。べちゃべちゃの泥道。まとわりつくような地面を転けそうになりながら走った。


「……どうしよ!?

 避難所ってどっちやっけ?!」


 方角もわからなくなって、一度海の方へ出ようとしたとき、また声がした。


『危ないっ!そっちに行っちゃダメ!』

 声と同時に、後ろから何かが飛んできて、海へ向かう道を真っ黒に染めあげた。モワァッと、何とも言えない生臭い香りが辺りを満たす。

「……ワオ。カイジューさまはビームも出せるってわけ?」

 僕はもう声も出せず、ただミユの手を握り締めて走り続けた。学校の運動会でも、マラソン大会でも、こんなに一生懸命走ったことはないってくらいに。


******************************


 息も絶え絶えになりながら、走っているうちに、地面の乾いている場所に出た。本当なら、そっちの方が走りやすいはずなんだけど、ずっと泥の中を走っていたから、つい転んでしまった。手を繋いでいたから、兄妹二人とも一緒に。


 もうダメだっ!


 そう思って、目をぎゅっとつぶっていたのだけれど、ビームも腕も襲ってこない。

 恐る恐る目を開けると、カイジューさまを大きな波が飲み込むところだった。住宅街まで届いた波は、カイジューさまもたくさんの家も飲み込んで、引き潮みたいに引いていった。


『間に合ってよかった』


 頭の中に小さく声が響いた。遠くに聴こえるみたいな小さい声だった。

 僕とミユは座り込んだまま、ただぼんやり海へ戻っていく波を見つめていた。

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