episode11 無能殿下が妙なところで本気を出してきて困る

 ぼんやりと細い視界に、なんとなく見覚えのある濃い金色と薄紫色の絹の色が見える。

 ああ天蓋かとマーリカはゆっくりと瞬きをして、であればここは寝台ベッドの上かと思った。

 ふかふかとしたとても良い寝台だ。

 体にかかっているのも軽く肌触りよく暖かい、絹に羽毛を詰めたもの。

 いずれも上等で高価なものである。事故に遭い、助けられて相当な貴族の家に保護されたようだ。

 お礼を言わなければ……と、マーリカは、んっと小さく呻いた。

 喉がとても乾いている。けれど起き上がろうとは思えなかった。

 体が異常に怠くて力が入らない。頭もひどく重い。

 寝起きとしては最悪の気分だと思っていたら、ひょっこりと現れた別の色が目に映った。

 陽光のような柔らかな淡い金色と冬場には珍しい、澄んだ青い空の色――。


「ああ、マーリカ目を覚ましたのだね」

「で……っか……」


 その声、柔和で優しげな完璧に整った美貌はまぎれもなく。

 マーリカが仕えるオトマルク王国の第二王子フリードリヒ・アウグスタ・フォン・オトマルクであった。

 だから殿下と言ったつもりなのに、掠れた不明瞭な声しか出なくてマーリカは覚めたばかりの意識の中で戸惑う。


「水……」

「ああ、そうか」

 

 思わず呟いたマーリカの言葉に反応し、仰向けに真上を見ることしかできないマーリカの視界からフリードリヒの姿が消える。少し間をおいて、唇にひやりと冷たく硬質な管のようなものが触れた。


「飲める?」


 あろうことか王族であるフリードリヒが、水の入った吸い飲みのガラス容器をマーリカに差し出している。

 とんでもないことだと反射的に飛び起きようとしたマーリカだったが、胸元とそこにかかっている羽毛を詰めたケットが僅かに浮いただけだった。

 ああ、大人しくしないと。

 そんなフリードリヒの言葉と、彼がガラス容器をサイドテーブルに置く音をマーリカは聞く。

 肩より上にケットをかけ直され、寝台に手をつき真上からマーリカを覗き混むフリードリヒの顔が再び視界に大写しに見えた動揺に、マーリカは目を見開く。

 ここはどこなのか、自分は一体どうなっているのか、何故フリードリヒが側にいてマーリカの世話を焼くようなそぶりを見せているのか。 

 いくらでも浮かぶ疑問と働かない頭に軽く目眩がしてくる。

 自分が寝かされている部屋はとても静かで、フリードリヒ以外に人の気配も感じない。

 本当にどういうことなのかと不安に揺れる黒い瞳を動かすマーリカに、フリードリヒが微笑むように目を細めた。


「ここは王家所有の離宮。いつだったか大祖母様気に入りの離宮があるって話したことなかった?」


 どういった場所かはわかった。

 しかし殿下、これはどういった……そう言ったつもりなのに、マーリカの開いた口からはう……、あ……といった呻くような声しか出ない。


「七日ほとんど眠っていたらしいから。体も衰弱してるだろうし、喉も辛いと思うよ」


 七日!?

 約二週間の休暇を取得した上に、事故に遭ってさらに七日も眠っていた?

 しかもまともに動くことができなくなっている。

 復帰できるまで回復するにはどれくらいかかるかと思うと、マーリカは血の気が引いて再び意識を失いそうになった。


「マーリカ?」


 秘書官どころか文官失格だ。

 じっとマーリカはフリードリヒを見つめる。

 なんというかこんな状況で身体的にも精神的にもどん底にいるのに、そういったことを一瞬忘れてしまうほどに顔がいい。つい最近会ったばかりの従兄弟や再従兄弟も美形ではあるけれど、それでも及ばない。


「うーん。まあとにかく少し喉を潤そうか。そう見つめられるとなんだかだし」


 枕越しに首の後ろに片腕を入れられる。

 少しばかり頭を起こし、寝台の上にあったらしいクッションを入れられた。

 ケットごと肩を包むようにして、ずり上げるように僅かに上半身を起こされ、再び吸い飲みの飲み口を唇に押し当てられる。

 いくら日頃、無能だなんだと悪態吐いているとはいえ。

 自分は王族を世話する側であって、間違っても王族に世話される側ではないとマーリカとしてはものすごく抵抗があったけれど、自力でまともに動けず話もまともにできないため大人しくなすがままになり少しばかり水を飲んだ。

 冷たく美味しいと思って飲んだが、久方ぶりに喉を潤す刺激に咽せる。


「っ……もうしわけっ………っ、っ」

「いいから、慌てず」


 やや命じるようなフリードリヒの口調に頷いて、もう一度マーリカは恐る恐る水を飲む。

 今度は咽せなかった。


「……解任ください」


 一体どうしてとか、ありがとうございますとか。

 もっと他に先に言うべきことはいくらでもあるはずなのに、若干掠れ気味でも声を出せた喉から滑り出たのはそんな言葉でマーリカ自身も驚いた。


「辞めたいの? 怖い目にも遭ったしね。無理もないけど」


 マーリカの丁度胸の位置。

 寝台の側に置かれた、薄紫のビロード生地を貼った教会の椅子のような古風な椅子。

 それに腰掛けていたフリードリヒが静かに尋ね、無意識にマーリカは頭をわずかに揺らすように振っていた。


「じゃあどうして?」

「休暇だけでなく……七日も。しかもこれでは務まりません」

「マーリカは未消化の休暇が呆れるほどの日数で溜まってるから問題ない」

「……そういうわけにはっ」

「じゃあ治るまで保留。大臣達が調整した懲罰枠登用だから勝手に決めたら怒られるし」

「その間はっ」

「アルブレヒトと平の秘書官がなんとかしてくれる。今は冬で暇だし、別に困ってない」


 そう言い切られてしまっては黙るしかない。

 しかし、第三王子の補佐や部下の秘書官が頑張っても肝心のこの人がこんな場所で遊んでいてはと……マーリカはフリードリヒの顔を見ながら困惑に眉根を寄せる。

 

「殿下も……お仕事してくれなければ、困ります」

「ふむ、目が覚めてきた? それはマーリカによる」

「なにを……」

「安静にしっかり休んでくれるなら、きちんと片付ける。ここで」

「……は?」


 フリードリヒと話しているうちに、だんだん彼を見る目に力がこもってくるのがマーリカは自分でもわかった。

 たぶんいまは彼から見て、睨むような目つきになっているだろう。


「本当つ、マーリカって私を全く信用していないよね」

「そういったことは、信用にっ……足る行動を、してから仰ってください」

「水飲む?」


 一応、諭している最中で間抜けなこと極まりなく、ものすごく不本意ではあるけれどマーリカは頷いて、フリードリヒの介助を受けて水を飲んだ。今度はさらにごくりと喉を動かし容器の三分の一程を飲めた。

 

「あまり張り切って飲まない方がいいと思うよ。ずっと寝ていたわけだし」

「黙ってください。話の途中です」

「……回復早いね。若さかな」

「殿下とは五つしか違いません。どういうことです」

「なにが?」

「ここで仕事をするとは」

「ここは王家所有の離宮だし、たまに場所を移して執務をするのは別に珍しいことじゃない」

「非効率です」

「だから、いまは結構暇で。アルブレヒトの見立てでは三日に一度まとめて決裁書類に署名してくれたらいいんだってさ。ここから王都割とすぐだから、急ぎは鳩飛ばすって鳩早いからねー」

「まさか調整済だと?」

「私だってたまにはマーリカみたく休暇が取りたい」

「――っ」


 これだけ休んで穴を開けてしまっていては、休暇を持ち出されると分が悪い。

 王族だから休みなどないとは流石に言えないし、しかも第三王子のアルブレヒトと結託までしている様子だ。

 フリードリヒを反面教師とし、補佐に入って早々にあの条約締結騒動に巻き込まれ乗り越えただけにアルブレヒトは非常に優秀である。

 正直、フリードリヒがなにもしない分を初の公務でほぼ引き受けて、回してしまったアルブレヒトが協力する構えなのなら、本当にフリードリヒが話す通りに三日に一度の見立てで事足りるのだろう。

 そこまで考えたマーリカがフリードリヒの顔に意識を戻すと、彼はなんだかつまらなそうなため息を吐いた。

 

「やっぱりまだ全然だ。普段のマーリカならこの程度では黙らない。とにかくそういうことだから。向かいが執務室。私の寝室は左隣。護衛騎士は廊下と建物周りに何人か。右隣には医官がいて、部屋には看護の侍女が二人……いまは外してもらっているけど常時ついているから心配ないよ」


 矢継ぎ早に次から次へと、部屋だの人員だのを説明されてマーリカは理解が追いつかない。

 事故に遭って、重症だったのだと思う。

 しかし目を覚ましたのだし、一介の文官の自分は王家所有の離宮でこんな高待遇な療養する身分ではないはずだ。

 これではまるで王族同然……しかしすでに七日寝込んでいたようで、手配され切っているものなら無下にもできない。

 おそらく先ほどのフリードリヒの口ぶりでは手配され切っているとマーリカは判断した。

 妙なところで本気を出されても困る。

 認めたくはないが公務でなければ彼はそこそこ有能で、しかもあまり苦手分野もない。

 それについては丸一年以上仕えていて把握済だ。 

 

「なにか物言いたげだね。でももう疲れたろうから眠るといい」

「殿下」

「これは命令」

「く……っ」


 再び体の位置をフリードリヒに戻されながら、マーリカは軽く下唇を噛む。

 なんだか口惜しい。

 それにフリードリヒの言葉は憎たらしいのに、口調が妙に優しく甘く静かに囁くようだから勝手が狂う。

 日頃から見慣れていて、彼に悪態吐いているマーリカであってもふとした一瞬惹き込まれそうになる。腹立つまでに顔がいいのだこの第二王子は!


「マーリカ」


 呼ばれて我に返り、あまりに近づいていたフリードリヒの顔と、目の前が陰っていることに驚いた。

 額にごちんと彼の額がぶつかる。

 マーリカはもうなにがなんだか、鈍い頭の働きが追いつかず完全に思考停止状態に陥る。


「私を怒る元気があるのは結構だけどさ。君、わかっていないみたいだけれど、まだ結構熱あるから」

「……顔が……近い……っ」

「従兄弟だか再従兄弟だかには、甘やかされているくせに」

「はい?」

「三日に一度以外は私は休暇だから。マーリカも療養中は休みで決裁済。君いま文官じゃなく伯爵令嬢。そしてこの離宮は王太子である兄上の采配と心しておくように」

「なっ……」

「諦めて療養すること! これは王家がエスター=テッヘン家に確約した待遇だから」


 フリードリヒが話すたびに吐息がかすかにかかるのがなにか落ち着かない。

 とにかくこの状況はフリードリヒの一存だけでこうなっているわけでもないらしい。

 それにものすごく癪ではあるけれど、フリードリヒの指摘通りではあった。

 ほんの少し動いて話しただけであるのにひどく疲れ、ずっと頭は重くぼんやりとしていて、うっすらと吐き気もありとにかく起きているが辛い。

 もういい、寝ようとマーリカは思考を手放して眠りに落ちる。

 目を閉じる寸前に、フリードリヒが完璧な王子の微笑みを浮かべているのが見えた気がした。

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