episode3−2 手紙が届いた、差出人の名前はない
「――殿下」
我に返ったフリードリヒが手元の手紙から視線を持ち上げれば、執務机の向こうに彼の筆頭秘書官が真っ直ぐに立っている。
「あれ、マーリカ。君いつ戻ってきたの?」
「数分ほど前に。入室時はもちろん、何度かお声もかけました」
淡々とした返答ではあるものの、少々、疲労が見える。
しかしどんなに疲れていても、彼の筆頭秘書官の凛とした侵しがたいような美しさは変わらない。
黒髪を引っ詰め男装に身を包んだ、令嬢にしてはやや背の高い、引き込まれるような黒い瞳の中性的な美女。
疲労が滲むその顔は、憂いを帯びた麗しさ――だけれど、フリードリヒを見る目が、若干血走っている。
「ああ、ごめん。手紙を読んでいて気がつかなかった」
「
執務机に片肘をついて読んでいた便箋をフリードリヒがひらひらと見せるように振れば、そんなものは見覚えがないと言いたげにマーリカは眉を顰めた。
「今朝、そのようなものが届いていた覚えはありませんが、私信ですか?」
「いいや。誰かがうっかり書類と一緒にしたみたいだ。差出人不明で気になるから開……」
「開封したのですかっ!?」
「うん。だから読んでた」
「なにを考えているんですっ!!」
まるで雷のように、マーリカの怒号が執務室に落ちる。
彼女の剣幕に驚いて、フリードリヒは慌てて何事もなく無事だと訴える。
「なんともないよっ、ただの嘆願書のようなものだったよっ」
「なんともあったら一大事です!」
「で、でもほら仮に毒が仕込まれていたとして……それだと確認するマーリカが危険だ。はっきり言って、私よりマーリカのが王宮には必要な人材であるし、そこを私が救ったとなれば一躍英雄えっへん」
ダン!
真っ直ぐな姿勢のまま片足で、マーリカが床を踏み鳴らす。
再び驚いて目を見開いたフリードリヒを無表情で見据え、マーリカは彼女自身を落ち着かせるように深呼吸した。
「殿下……自虐か威張るかどちらかに。そもそも、そのような事で殿下に万一があれば責任を問われるのはわたしです。不敬をやらかした記録もありますから、暗殺を疑われ首を刎ねられかねません。動機ならいくらでもありますし」
「あるんだ」
「むしろないとお思いなのが不思議です。ですから殿下の御身を張ったその死はまったくの犬死です。い・ぬ・じ・に・で・す!」
「えー」
マーリカから聞かされた衝撃の言葉に、フリードリヒは少しばかり落胆する。
そんな彼の様子を見て、マーリカはため息吐いて肩を落とした。
「何事もなくよかったです」
「マーリカ……」
「殿下ではなく、わたしの保身のために。拝見しても?」
「あまり愉快な内容ではないよ」
「でしたら、なおさら
世話が焼けると言いたげな表情で再びため息を吐くマーリカに、フリードリヒは手紙を渡した。
フリードリヒから手紙を受け取って、目を通すマーリカの眉間にみるみる皺が寄っていく。
手紙にしたためられていた言葉の数々をまとめて要約したなら、大体こんなところだ。
“マーリカ・エリーザベト・ヘンリエッテ・フォン・エスター=テッヘン嬢が仕えるに、フリードリヒ殿下は相応しい相手ではない。早々に解任されたし。我が王国にとっても由々しきことである”
「わたしへの嫌がらせの手紙です――申し訳ございません」
「私では? 差出人の名前はないけど、宛名は私だよ」
「隣室に届けられるため書類にまぎれて殿下に渡ったようですが。手紙は原則わたしが
「うん」
「殿下宛の嘆願書の体裁であれば、わたしの一存で無視はできません」
「つまり、マーリカへの非難とわたしへの進言どちらも叶う」
「その通りです」
「そうかなあ?」
「弱小伯爵家の三女。貴族の中では微妙な身分で女の私が、顔と運だけの第二王子とはいえ、王族付秘書官であることを快く思わない方はいます」
「いま、さらっと私にひどいこと言ったね?」
「まさか」
「まあ、私ほど公務に向かない王族もいないけどさ」
フリードリヒの自己評価として、愚かではないとは思うがかといって賢いとも思ってはいない。
例えば、乗馬や剣技やダンスなど、王族として嗜むべきことも一通りこなせはするけれど、特出するものはなく人並み。
「第二王子でよかったなあって思うんだよねー」
「殿下、ご自分を卑下なさるのはよくありません」
「君だって、よく無能って怒るじゃない」
「やれば出来ることをやらないからです。王族に求められる能力の水準はそもそも高いのですから、人並みでも一般貴族の中では中の上くらいはあるかと」
「微妙な評価だ……」
(でも、概ね合っている気はする)
とにかく。
やれば出来ることをしないというよりは、興味がないことへのやる気が出ない。幼少期から課せられてきた勉強や鍛錬も、教師や指南役がぎりぎり認めるところ以上する気もなく。
そんな日課から解放された後は、きれいさっぱり忘れた。
忘れることは、フリードリヒの特技であった。
「それに第二王子っていっても、王太子の兄上は優秀だし結婚して子供も男の子が二人いるしさあ」
後継者に関して王家は安泰。
長兄のスペアといった第二王子の役目からも、フリードリヒは解放された自由の身だ。
「まだ二十六だけど、正直、景色のいい郊外の離宮に隠居して暢気に暮らしたいよね。兄上のように人を指揮するようなことなんてもってのほかだしさ」
「殿下」
「大祖母様のお気に入りの離宮があってね。古い暖炉があって、赤いバラが植わってて、小犬と暮らす〜私の横には〜君が――」
「戻ってこい! ハッ、鉄道利権絡みで牽制にきた例の使者との会食一発で、こちらに有利な条約締結へと誘導した殿下がご冗談を」
「マーリカ……なんだか、冷たい」
マーリカの冷笑と皮肉に、執務室の温度がどんどん下がっていくようにフリードリヒは感じた。
雪に閉ざされた真冬の山くらいに下がっているような気がする。
公務以外は王城の中にいる第二王子、雪に閉ざされた真冬の山などもちろん行ったことはない。
けれども、この凍えそうに冷たい空気はきっと似ているに違いないと彼は思う。
「わたし如きがご用意したものなど、殿下には無用ですとも! あの、最近食べて美味しかった野鳥料理や狩猟の話!」
「えっと……」
「あの野鳥は彼の国から渡ってくる鳥です。“出方によっては周辺諸国に声をかけて糾弾する”と脅しも同然。果ては王子が大衆誌に寄稿などと、“ペンの力で世論を動かすのも一興”と先方は捉えたでしょうね」
「あのー、マーリカ?」
「ざくざく肉をナイフで切り分けながら、完璧に無邪気に語るお姿など、どこの性格破綻者のやばい暴君かと!」
(マーリカ……マーリカ嬢? マーリカさん……?)
「適当に好きに話しただけ? 相手が勝手に言葉を深読みしただけなんて、ご謙遜を。そんなことで三度も四度も大きな
「ごめんなさいっ! 資料読むの忘れて適当に当たり障りのない話をしたらこうなりました! すみませんでした!」
「流石な貢献をして一体なにに対する謝罪ですか。どんな謎の強運ですっ!?」
(私を見る目が怖いよ、マーリカ……。コロス、マジ、コロスって目だよ。ちょっと涙ぐんでいるのは可愛いけれど)
フリードリヒが黙っていると、すんっ、とマーリカは軽く鼻を鳴らした。
そうして彼女は上着の襟元を直す仕草をし、冷静沈着な第二王子付筆頭秘書官に戻った。
「申し訳ありません。激務で少々取り乱しました」
「うん……で、大臣達との調整はついたのかな?」
「はい。皆様、お顔の色が青くなったり白くなったり赤くなったりしておりましたが」
「おお、流石!」
「職務ですから。ちなみに文官達は土気色になっています」
「うん、君もこころなし青黒いね」
(それがまた麗しいのだけど……こんなに綺麗で優秀で、王子の私にも容赦なくて、それでいて献身的に尽くしてくれる秘書官が他にいる? いないでしょう。気に入るなってほうが無理な話だ)
マーリカを好ましく思うのは、フリードリヒだけではないらしいことを彼は知っていた。
先月号の王都
『上司にしたい文官番付四位』にマーリカの名前が掲載されている。
(上位三位は偉い立場の人への忖度も入るだろうし、実質一位のようなものだよね)
投票者
随分と慕われている……これは油断ならないと、読みならがフリードリヒは密かに定期購読していてよかったと思ったのだった。
(手紙も、絶対、彼女を私に付けておくのは勿体ないからさっさと解放しろって意味だと思うのだけど。解任なんて冗談じゃない)
マーリカ自身は、どうやら周囲から慕われていると思っていないらしい。
一般的な貴族令嬢のように柔らかで優しい雰囲気ではなく、言葉の調子も淡々と事務的なのに劣等感めいたものを抱いているような所もある。
『社交界デビューもせず、文官として働いていますから、“鉄の女”のようになってしまった気がして……それでも貴族令嬢ですから、そんな上司を持って部下達はさぞやりづらいのではないかと』
いつだったか、書類仕事をしていて雑談がてらそんなことをぽつりとマーリカがフリードリヒに漏らしたことがある。
(ちょっと申し訳なさそうな様子でいたなあ。日頃の態度は全方位塩対応なのにたまにしゅんって気弱になるんだよねえ)
マーリカが厳しいのは、フリードリヒだけではない。
例えば、子供が生まれたばかりの部下に、「執務に身が入らない人がいても迷惑です」と仕事を取り上げて帰らせる。
無理難題をふっかけにきた他部署の文官に「ご覧の通り、手一杯で無理です。見てわかりませんか?」などとけんもほろろに追い返すなど。
(平の秘書官達、これまでなかったくらい士気高いし……皆、マーリカが不器用ってわかってるんだろうけど。いやしかし、あの厳しさは私だけに向けて欲しい。特にあのぞくぞくするような、見下してないけど見下すような眼差しはっ)
「殿下」
「ん?」
「なにをお考えで?」
「なにも」
「ならいいですが……妙な怖気がしたもので」
フリードリヒに対してなかなか失礼なことを呟くとマーリカは、彼の執務机からよく見える位置に設置させた彼女の席に着いた。
「手紙はわたしが処理します」
「うん」
その後は、何事もなく。
怠惰な第二王子と、その世話を焼く秘書官のいつもと変わらない執務室の二人のまま、秋の日は暮れていった。
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