episode4 人の噂はあてにならない
オトマルク王国、王都リントンから東の郊外。
薄い緑青色の屋根、左右対称な白い建物。
優美な曲線に装飾されたその美しい宮殿は、二百年ほど前にオトマルク王家に仕えるさる公爵が作らせた離宮であり、当時流行ったバローコ様式の傑作といわれている。
後にオトマルク王家のものとなり、いま現在は主に迎賓館として重要な外交行事や議会の場として使われている。
白い壁、金に塗られた柱、大きな窓に金のタッセルでまとめられた深紅のカーテンに彩られた一室と色と意匠を合わせた、優美な猫足の椅子とテーブルを繋ぐ席に二人の貴人が並んで腰掛けている。
一人は、白の混じった灰色の髪を撫で付た恰幅のいい中年男。
羽織っている艶のある黒い絹に燻銀の装飾ボタン、太い金のモール刺繍の装飾も重々しいジャケットは、彼が国を代表する外交官として場に臨み、国の威厳を纏ってもいることを表している。
もう一人は、外交官の男よりずっと若い青年だった。
白絹のジャケットに赤いサッシュを斜め掛けした装いは、淡い金髪が美しい優しげな容貌にこれ以上となくよく似合っている。
緊張の色が隠せない外交官の男と違い、悠然と微笑みを浮かべる穏やかな青年の様子は、奇妙な威厳があり彼がただの若者ではないと人に感じさせた。
実際、彼はただの若者ではない。
フリードリヒ・アウグスタ・フォン・オトマルク。
深謀遠慮を要求されるオトマルク王国の文官組織を統括し、外交手腕においては、“晩餐会に招かれればワインではなく条件を飲ませられる”といった噂を周辺諸国に響かせる、オトマルクの第二王子。
ただいま調印式の真っ最中。
鉄道利権を巡っての条約締結、批准書に署名を行うその厳かなる儀は粛々と進行し、文官が批准書を外交官の男の前へ運び、彼が署名したその書類をフリードリヒへと渡す。
書面に署名しようとしてその寸前で、フリードリヒは何故かふと手を止めた。
背後に控える秘書官をペンを持たない手で呼び、ひそひそと彼等以外には聞こえない音量で話す。
そんな二人の様子に、隣に座る外交官の男はまさかここにきてなにか問題がと気が気じゃなく、嫌な脂汗が額に滲んでくるのを感じていた。
(なにしろ相手は、あの底の読めない腹黒王子……)
以前、会食の場でまるで大陸をそのように切り分けると皿の上の肉にナイフをいれながら、かの王子はにこやかに周辺諸国と結託すると迫ってきたのである。
王国から出された条件が思いの外、協調路線な内容だったのに男は心底からほっとしたのだ。
欲をかいたのは為政者で国民はそんなことはさして望んではいない、だからこそできる限り意向に沿うといった誠意を見せたのが幸いしてのことと思いたい。
(腹黒王子が、唯一、信頼寄せる秘書官。オトマルクの黒い宝石……エスター=テッヘン嬢)
昨年あたりから周辺諸国の高官達の間で、第二王子の側に新たについた女性秘書官も噂の的であった。
春の陽を思わせる穏やかで優しげな容貌の第二王子とは好対照。
黒髪をきっちりと結い上げ、黒い瞳の眼差しが涼しげを越して冷ややかな、凛とした佇まいの男装の麗人。
第二王子付筆頭秘書官。
マーリカ・エリーザベト・ヘンリエッテ・ルドヴィカ・レオポルディーネ・フォン・エスター=テッヘン。
その長い名前は、彼女が王国建国以前から続く由緒正しき伯爵家の令嬢であることを示している。
三女で才女であったことから、女性の身でありながら父親に代わって文官として王家に仕えるうら若き令嬢は、いまや周辺諸国の高官達に重要人物認定されている。
「マーリカ」
「……なんです、殿下」
「署名ってここでよかったよね?」
「はい。くれぐれも綴りをお間違えないよう」
「わかってるよっ」
周辺諸国の高官達を震えあがらせている二人が、まさかひそひそとこんなくだらないやりとりをしているなどと、派遣された哀れな外交官の男は露ほども思っていない。
偉大なる王国に睨まれたと思い込んでいる哀れなる彼は、白い頬に強く赤みがさす顔を暗くせながらじっと時が過ぎるのを待つばかりである。
(ここまできて、なにかおきたら本国に顔向けできない)
人の噂はあてにならない。
第二王子もその筆頭秘書官も。
周辺諸国から見える彼等の姿と、オトマルク王国側、特にその文官組織側から見える彼等の姿が一致しているとは限らない。
秘書官になにやらひそひそと話した後、何事もなかったようにすらすらと署名したフリードリヒに外交官の男はほっと安堵の息を吐く。
条約締結の宣言と盛大な拍手が起こり、署名した二人は立ち上がって晴れやかに握手を交わした。
その後、要人達は晩餐会へ。
あれこれとその段取りや準備を行なった者達は後片付けである。
「マーリカ嬢」
「はい。ああ、ビルング候!」
やれやれ終わったと調印式を終えた部屋から廊下に出てすぐ、声をかけられたマーリカは振り向いて、そこに気難しい大臣達の調整役に入ってくれた侯爵の姿を見て慌てて姿勢を正した。
「この度のことではご助力を賜り……」
「いやいや、そう畏まらないでくれ。妻の親友の妹である君の役に立てるならと少しばかり連絡役になっただけだ。それに君の父上には借りもある」
「はあ、父に……ですか」
由緒正しき伯爵家とは名ばかり。
古い血筋というだけで、お金も力もこれといった名誉もない。
両親も、二人の姉も、揃っておっとり大らかな暢気者一家。
なんとなく枝分かれした分家の人々は諸国の王侯貴族と縁づいて栄えているものの、肝心な本家は寂れる一方。
姉二人が母に似た美人で遥かに上位の貴族と結婚できたのはなによりではあるものの、可もなく不可もなく大きくも小さくもない領地で慎ましくやっている家は、その結婚支度金で危うく破産しかけている。
マーリカが文官となったのも、自分まで嫁いだら間違いなく破産だろうと考えてのことだ。
令嬢としては常識外れなマーリカの申し出だったが、もともと社交向きの性格でもなく、なにか世のため人のために役立つことが出来ればと考えていた娘の意思を尊重すると認めてくれるくらい、大らかな父親である。
そんな家で父であるから、国王陛下の側近の一人である侯爵に借りだなんてなにかの勘違いではとしか思えない。
「たしかに王宮とは疎遠だが、君のお父上はなにかと人望がある人だからね。助けられたのだよ。それにしても……相変わらず強運の持ち主だな、殿下は」
話がマーリカの仕える第二王子に及んで、マーリカの心身にずんっと重い疲労がのしかかる。
錯覚ではなく、事実、マーリカは疲弊していた。
それというのも……。
「また相手が勝手に殿下の言葉を深読みして、今日のこの日となったのだろう?」
ひそっと耳打ちしてきた侯爵に、ただじっとりと半眼の眼差しでマーリカは応じる。
肯定も否定もできない。どこでどう噂が広がるかわかったものではない。
まさか最初の使者の名前も確認していなかった、第二王子の適当なお喋りに政治的な含みがあると勝手に勘違いした先方が慌てて対応してきて、条約締結の運びになったなどと。
「たまにこういった奇跡のような成果を出すから、我々もねえ。陛下もわかってはいるが息子可愛さもある」
「お察しいたします」
「君も大変だったね、“まったく予定もしていなかった”条約締結なんて。それもこんな短期間に調整大変だっただろう」
「……」
(ええもう、それはもう、永遠に終わらないのではと思えるような……最後には補佐に入った第三王子殿下や大臣達、関係各所と謎の連帯と絆が生まれて共に朝日を見て涙するほどの地獄の日々でした……当の元凶の殿下はなにもしてませんけど)
「とにかく無事に終わったことだ、ゆっくり休みなさい。伯爵家の令嬢が働き詰めなのは見ていて痛ましい」
「はあ」
「たまには社交の場にも出なさい。エスター=テッヘン家の美人姉妹と聞いたら皆放ってはおかないぞ」
「お心遣いありがとうございます。そうします」
できることなら――そう侯爵に胸の内でマーリカは答える。
(尽力くださった方だが、善意なのに善意に思えないのは何故だろう。それに肩に手を置くだけでなく撫でるのは
第二王子の執務室に山のように積まれている書類を思い浮かべながら、反対方向へと廊下を歩いていく侯爵を軽く見送り、マーリカは冷淡とも称される無表情で黙々と廊下を歩く。
すべての調整をつけた後の、お楽しみ会のような晩餐会などは大臣達や侯爵のような人々が出るもので、フリードリヒの筆頭秘書官とはいえ一介の文官に過ぎないマーリカの出番はない。
仕える主のために用意されている部屋の控えの間に辿りつくと、マーリカは書き物机の椅子に座り、ばたっと机の上に倒れ込んだ。
「疲れた……」
今日で四十七連勤の記録更新である。
どう考えても規定違反なのに、誰も咎めてこないのはどういうことなのか。
しかし、安息日が安息日にならない日々からこれで束の間でも解放される。
「とはいえ豊穣祭に地方の視察も……どうせまた、まったくお忍びにならないお忍びであそこに行きたいあれを見たいと、警備計画を台無しにするに決まってる」
前もって興味を持ちそうなところはピックアップし、フリードリヒ付近衛騎士班長殿と相談はしているものの、なにしろフリードリヒの興味と思いつきは独特なので、油断できない。
(
しかもマーリカも知らぬ間に“美食王子”といったふざけた名で、王都
今日の調印式の準備で彼の周りは死ぬほど忙しかったというのに、そんな
フリードリヒ本人を問い質せば、匿名で寄稿したらそんなことになっちゃってとのことだったが、そんなことになっちゃてではない。
貴様は自分が王子だとわかっているのかと掴みかかりそうになり、近衛騎士班長殿に止められた。
(大体、あんな文才があるなら、日常の書類仕事ももっとどうにかできるはずでは……っ)
妙に食欲をそそられる
ものすごく不本意ながら、フリードリヒの
そんなとりとめのないことを考え休憩していたら、不意に慌ただしい足音がして控え室の前で止まったのに、マーリカは机に突っ伏していた身を起こす。
ドアが慌ただしくノックされて応じれば、息を切らせた若い文官の姿にマーリカは嫌な予感に眉を顰めた。
「えっ、エスター=テッヘン殿!」
「どうしました」
「フリードリヒ殿下がっ。明日の予定を無視して、使者の方と狩猟を決めてしまいっ」
(で、上官に気の重い伝令役を命じられたと)
知らせにきた文官はまだ若く、育ちの良さそうな顔をしている。
たぶんそれなりに高位な貴族の子弟で、それなりに優秀。
晴れがましい行事に関わる機会を得たものの、そんな若者にさせることもこれとなく、なにもせずになんとなくそこに控えている役でもしていたのだろうとマーリカは推測した。
予定にないことをされれば、もてなしの準備も警備もなにもかもが狂う。
無様なことになれば、フリードリヒの考えなしの言動を止められなかったその場にいた高官達の落ち度にもなる。
要は「なんとかしてくれ、マーリカ嬢~!」と、後処理を丸投げされている状況だった。
(本当に……皆、どうしてあの無能に甘いのか)
そう胸の内でぼやくマーリカだったが、これくらいは許容範囲だとも思う。
「そうですか」
「そうですかって……!」
マーリカが事もなげな返事したことに若者は驚いたようだが、もっと突飛なことを言い出されないだけマシだ。
いまや彼女自身が、“第二王子に甘い”の筆頭、任せておけば大丈夫な人物になっていることに彼女は気がついていなかった。
「晩餐会のメイン料理は雷鳥でした。それくらい言い出しても不思議はありません」
「や、でもっ」
「落ち着きなさい。
「え……」
「狩猟程度なら想定範囲内です。関係各所にはこちらで話をつけます。わたしに知らせるよう貴方に指示した方にそうお伝えください」
「その、流石にいまから……準備は……」
「それは貴方が心配することではありません」
(単にその場にいた人で、一番下っ端だったというだけなのだから)
この件と貴方は無関係と線引きするため、マーリカはぴしゃりと言い放つ。
萎れた様子で去っていった様子に、もう少し優しく言えばよかった、自信喪失したらどうしようとマーリカは言ってから心配したものの、下手に親切心を持たれて手伝いますとなっても気の毒だし迷惑でもある。
(若い人、難しい……)
マーリカ自身も十分若いが、フリードリヒのおかげで修羅場経験だけは歴戦の騎士並みになっている。そのことについても彼女は無自覚だった。
やれやれとマーリカは額を押さえ、地の底から響く呪詛の如き低めた声で呟く。
「あの無能殿下……後で絶対シバく! 泣かす!」
人の噂はあてにならない。
周辺諸国からは底の見えない切れ者扱いの第二王子は、本当になにも考えていないただ強運なだけの無能殿下で。
第二王子の忠臣なる筆頭秘書官は、日々殺伐と彼に献身的に仕えているだけなのだった。
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