episode2 忙しすぎるので一年が早い
執務室の窓から、木々の葉色づく庭園の風景が見える。
もうそんな季節かとマーリカは思った。
(早いものだ……)
なんとなく感慨深い思いが胸を過ったものの、それに浸れるほどマーリカの仕事は楽ではない。
怠惰かつ自由気儘な誰かさんのおかげで、一日にさばく書類だけでも大変な量だった。
書類だけならまだしも、関連各所との連携や折衝などもある。
おまけに直属の部下が五人いる。
マーリカの指示で細かな事務作業や調整連絡に日々追われている部下達が、これまた気まぐれな誰かさんのために無駄に時間を取られるのを防ぎ、上司として彼らが疲弊し過ぎないよう健全な労働環境を守るのもマーリカの仕事だ。
近頃は、王族付の筆頭秘書官ということで大臣連中の無駄に長い会議に呼ばれることも多い。
(本当に、すべきことばかり増えてくる)
とにかく時間がない。
仕事に集中できるうちにできるだけ片付けたい。
でなければ、マーリカの仕事は積み上がっていく一方である。
マーリカは驚くべき速さで書類に目を通し、却下や差し戻す書類にその理由を書き入れていく。
割合でいえば承認が一割、却下が六割、保留が三割。
差し戻す書類は部下に渡し、あるいはマーリカがしかるべき権限を持つ人々のところへ相談に行く。
そこまで慎重にならずともよいと言われることが度々であったが、慎重になるのには理由がある。
(そもそもこれは殿下のお仕事……いいのか、こんな丸投げ!?)
マーリカが秘書官として仕えるのは、深謀遠慮を要求される文官組織を管轄する、オトマルク王国の第二王子。
フリードリヒ・アウグスタ・フォン・オトマルク殿下。
考えなしな言動と執務へのやる気のなさで、文官達から“無能殿下”と揶揄されようと、文官組織のトップはフリードリヒである。
というわけで――様々な提案書や決議書あるいは国民からの嘆願書……あらゆる重要書類の行き着く先は彼のところで、国王陛下の名の下にそれを承認するのも彼である。
流石に署名や印章を押すことはないものの、マーリカが承認に回したものはほぼそのまま通る。
フリードリヒは、ほぼ九割九分の確率でマーリカがよしとした書類を躊躇うことなく承認してしまうのだ。
これでは一介の秘書官が、実質決裁してしまっているのも同然だった。
前任者が胃の不調を訴え、長期療養の末に退職したのもわかる。
いくら筆頭秘書官だからって、本当に、なにか事が起きた際に「秘書が勝手にやりました」とされても反論できないこのような内情とあっては。
「二十五連勤を記録した、以前の部署のがよほどまし……」
末端の実務を担う文官で、こんなムダに重圧のかかる仕事はなかった。
それに少なくとも仕事を終えれば官舎の自室のベッドで眠れたし、時期によっては週末実家に帰ったり、二、三日休暇を取ることだってできた。
「それがいまや……くぅっ……」
夜には休むし、休日もあるけれど、予測がつかない彼の言動のために頻繁に激務の嵐に見舞われる。
第一、護衛の近衛騎士もついているはずなのにすぐ姿をくらます。
おかげで、かつて第二王子に危害を加えた危険人物としてマーリカを拘束したフリードリヒの護衛騎士達と、この一年で固い連帯の絆を結んだ彼女であった。
「やっぱり一度シメる……泣かす……」
さらさらと引っ掛かりのない上級紙の書類にペンを走らせながら口をついて出た言葉に、「あ……いや、一度シメてはいるか」と思い直したマーリカがペンを動かす手を止めた。丁度その時。
「ただいまー。今日も殺気だっているね、マーリカ」
「殿下、お戻りですか」
失礼な挨拶と共に執務室に現れた人物に、彼女は椅子から立ち上がって一礼する。ノックも前触れもなくて許されるのは、この部屋の主であるからだ。
(ああ、仕事に集中できる時間よ。終了――)
「でもさー、どうして一緒に来てくれないの?」
「“でもさー”の脈絡がありません。まったくもって意味不明です」
「父上や母上、兄夫婦や弟妹達との昼食会」
「むしろ王族一家団欒の場に、何故わたしが同席できるとお思いか」
執務に戻ってよしと、軽く右手を下げる合図をしたフリードリヒに従いマーリカは自分の席に座った。
その席も、マーリカにとっては不本意なものだった。
王族の執務室は、王族のためのものだ。その側に立って控えることはあっても家臣の席がそこに設置されるなど有り得ない。
「マーリカ」
「はい」
部下の秘書官達は当然、隣室に控えて仕事をしている。
フリードリヒの強い要望で、マーリカの席だけが何故か彼の執務室にあるのだ。
部下達がマーリカに用があっても、第二王子の執務室に気軽に入れるわけがなく、マーリカが二つの部屋をいったりきたり、仕事の確認をしにいくことになる。非効率極まりない。
「今日はまだなにもしていないのに、どうして“この無能”って目で見てくるんだ! マーリカ!」
「なにもしていないのが問題だとは思いませんか」
とん、とマーリカがペンを走らせているすぐそばに、手入れの行き届いた大きな手が現れる。
マーリカが書類から頭を持ち上げれば、体を軽く傾けて机に手をついたフリードリヒが彼女を見下ろしていた。
「――マーリカ」
二十六歳の第二王子。
夢見る乙女が憧れの貴公子を思い描いたなら、おそらくこうなるだろうといった姿。
(まったく腹立つまでに……顔がいい)
誠実さと凛々しさを感じさせる眼差し、その瞳はどこまでも澄んだ空色。
短めに整えた、柔らかな光を放つ波打つ金髪。
育ちの良さを思わせるしみひとつなく滑らかな象牙色の肌は、疲労と寝不足で肌荒れ気味なマーリカにとって大変羨ましい。
品よく収まり高貴さを表す、通った鼻筋や引き締まった口元。
ごく薄く薔薇色が差す頬に、長いまつ毛が物憂げな影を落とし、深遠な考えを持つ第二王子と彼を深く知らない諸外国の使者を畏怖させるが、もちろんそんなわけがない。
(全世界に真実を知らしめてやりたいっ!)
筆頭秘書官として様々な公務の場でフリードリヒの側に付き従うマーリカは、この美しくも憎々しい顔を見るにつけそんな衝動に駆られるが、国益を考えればもちろんできるはずもない。
「私の書類はすべて、“愛情”込めて君が目を通してくれるのだろう?」
すらりと長い手足。細身だが貧相ではない体つき。
全体的に柔和で穏やかな人好きのする雰囲気で、“
「冷静かつ慎重に精査いたしますが、決裁は殿下のお仕事です。あと顔が近い、
「えー!」
「わたしで遊ぶ暇があるなら、ちゃっちゃと書類を片付けてください」
「もう私の筆跡だってお手のものじゃないか!」
「殿下がご令嬢への手紙を滞らせるからでしょう! 手紙の代筆はしても、公文書偽造は致しません」
「私の顔に免じて」
「顔でなんでも許されると思うな」
大変に美形であることは認める、とはいえ犯罪者になるつもりはない。
本当に見た目は申し分なく、見た目通りに温厚な人柄。
これで執務能力さえあれば――実に残念だとマーリカは嘆息する。
「ため息なんて吐いて、幸せが逃げちゃうよ?」
「殿下に捕まった時点で、すべての幸いから見放されております」
(わたしのこの一年にあるはずだった余暇を返せ。今日こそ官舎の自室に帰りたい)
「マーリカ、酷い」
「仕事しろ。仕事しないなら人の邪魔せず大人しく座ってろ」
これ以上ない、気まずさで顔を合わせた着任日からこの調子である。
フリードリヒが彼の頬を叩いた相手であるというのに、挨拶もそこそこに「マーリカと呼んでいい?」だなんて、臣下に対してあまりに親しみあり過ぎる気楽な調子で接してくるものだから、気まずさなど一瞬で吹き飛んでしまったけれど。
(それに……わたしを立場を明確に高官達に示してくれているのは、ありがたくはある。初日にやってきた高官がわたしに「口を挟むな」と言ってのことではあるけれど。あれは庇ってくれた? ちょっと違うか)
マーリカは第二王子付筆頭秘書官である。彼女が蔑ろにされるのは第二王子を蔑ろにされたとも考えられるから、フリードリヒとしてはそれに対して釘を刺した程度なのかもしれない。
『知っての通り、私が取り立てた第二王子付筆頭秘書官。私の言葉を君たち現場を指揮する者に伝えることもその役目とする、私に仕える臣下だ』
そう言い放ったフリードリヒに、その高官の顔色は頬を紅潮させてマーリカに文句を言っていたのから一転し、血の気が引いたように蒼白になった。
内容が不審な書類の決裁をフリードリヒに迫っていた彼は、後に不正が発覚し更迭されている。
(人に仕事を丸投げさせるための指示だとか、賞罰に関しては結構しっかりしているのだけど……)
結局のところ仕事を任せた者が動きづらかったり、不正などがあるとその面倒は文官組織の長である彼に返ってくるから、あくまで自分が楽したいためなのだろう。
怠惰もここまでくるといっそ立派にすら思える。
王族だからと遠慮していたのは、わずかひと月の内。
いまや他の者がいない時は、フリードリヒに対して暴言、不敬と見做されても文句は言えない接し方にマーリカはなりがちだった。
でなければ、仕事が進まない。
そもそもマーリカが筆頭書記官になったのも、フリードリヒへの不敬極まる振る舞いがきっかけではある。
(この点に関しても、「人間怒られなくなったら終わり」などと言って、殿下が寛大なのに甘えている気もしないではないけれど)
そんなことを考えているマーリカの気もしらないで、フリードリヒは彼女に厳しいことを言われてもけろりとした様子でいる。
「まったく王子の私に厳しいのだから。ああっ、でもそれが私の人生に新鮮な刺激を与え……」
「寝言は寝てから仰ってください」
胸元を手で押さえて天井を仰ぐ芝居がかった動きで、顔と釣り合う美声を張り上げたフリードリヒの言葉を、これ以上ないほど淡々と冷たく抑揚もない調子でマーリカは遮った。
流石に大人しく仕事をする気になったらしい。
マーリカが机の上に分けていた“承認待ち”の書類をうんしょと抱えて、フリードリヒは彼の執務机に向かう。
「真面目にやるから、全部終わらせたらご褒美が欲しいっ」
「そもそも全部終わらせて当然な、殿下のお仕事です」
「私がたまに日課を真面目にやると、母上が頭を撫でて頬にキスしてくれたものだよ」
「おいくつの頃の話ですか。秘書官に“よくできましたー”なんてされたいんですか? まったく……そういえば、東の島国にキスと呼ばれる白身魚があるとか」
「なにそれ?」
「薄い衣をつけたサクサクの揚げ物が美味だそうですよ」
「そんなことを聞いたら、食べたくなるじゃないか!」
「かろうじて我が国でも入手可能です。きちんと終わらせたら侍従長にお伝えし手配しましょう」
(絶対深く考えてないとわかっているものの、法務大臣に
一見、侮れぬ者のような容姿と異常な運と引きの強さ、憎めない性格による偶然が重なって、時折、奇跡のような功績を上げて公務から外すことができない分、ただの無能より質が悪い。
「マーリカ」
「なんです」
「君と出会ってそろそろ一年だ」
「左様ですね。また胸ぐら掴まれ往復ビンタされたいですか」
「突然、部屋に押し入ってきた男装の麗人に、壁際に追い詰められる日が来るとは思ってもいなかった」
「語弊のある言い方は止してください……殿下の考えなしの言動で、どれだけの文官武官が迷惑を被るかお忘れなきよう」
言葉の間で、ペンの音の二重奏が聞こえる。
一年前と比較すれば、フリードリヒ自ら仕事をしてくれるようにはなっている、とはマーリカも思う。
思うけれど――。
「マーリカ、手が疲れた」
「……三歳児か」
(ただ署名するだけの書類の、一度の集中で片づく枚数が三枚から十枚になった程度の進歩なのが――つらいっ)
今日もマーリカは。
フリードリヒがすべての仕事を終えるまで、彼の私室にまで付き従い、彼を監督するのだった。
近頃の彼女の寝床が、第二王子の私室の立派なソファになっていることを、周囲の者達が知るのはもう少し先のことである。
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