episode1−2 忙しすぎる文官令嬢、疲れて事件を起こす
オトマルク王国、王都リントン。
その日、賑わう街を見下ろす高台に立つ、王城の朝は早かった。
普段なら、王都屋敷でそろそろ朝食をとる頃といった大臣達は朝早くから一室に集まり、ある一人の令嬢の処遇を巡って会議を開いていた。
「マーリカ・エリーザベト・ヘンリエッテ・ルドヴィカ・レオポルディーネ・フォン・エスター=テッヘン」
議長席に座っている青年が書類に記された名前をよく通る声で読み上げる。
それぞれ孫が何人かいそうな年配の大臣達が揃う中、一人だけ若く、金髪の艶も美しい青年は、貴婦人の扇のように広げてその顔を隠していた書類をテーブルに置いた。
「かわいいけど、長い名前だねえ」
「フリードリヒ殿下、早朝から恐れ入ります」
「いいよ。昨晩気が昂っちゃったからか、早く目が覚めちゃって。どうしようかなあって思っていたところだったから気にしないで」
「はあ……まあ、昨日のようなことがあったのですから、それも致し方ないかと存じますが」
「昨日のようなことって?」
(いまからなんの会議をするのか、理解しているのかこの方は……)
青年の左側から恐縮の言葉を掛けた、進行役の法務大臣はそう胸の内で呟くと細長いテーブルの向こう岸にいる内務大臣の顔を見る。
法務大臣から目を向けられた内務大臣はその目を伏せることで、さっさと進めてくれといった彼の意を示した。
「彼女を取り押さえ尋問を行った近衛騎士が取った調書によれば、殿下の執務室に許可なく押し入り、“なにが茶菓子だこの無能殿下! 貴様の考えなしの言動でどれだけの文官武官が迷惑を被っていると思っている!”と、至極正論……いえ、暴言を吐き、その上で壁際に殿下を追い詰めたとのことですが」
「うん」
「殿下の両頬を数発ずつ平手で打ちながら、近衛騎士が取り押さえるまで、王族の警備にどれだけの者達が苦心し労力をかけているか滔々と語っていたと」
「うん。皆を労わないとね」
「ご立派なお心掛けです。マーリカ嬢の蛮行は看過できるものではありませんが」
「王子を叩いちゃってるからね」
緊張感のない返答に困惑を浮かべる大臣達とは対照的に、議長席に座る青年ことフリードリヒは澄んだ空色の瞳の目を細め、にこにこ上機嫌な微笑みを浮かべている。
その様子だけを見れば、高貴で穏やかな、懐の深い威厳すら感じさせる美貌の王子であった。
フリードリヒ・アウグスタ・フォン・オトマルク。
言わずと知れたこの国の第二王子。
深謀遠慮を要求される王国の文官組織を管轄する、なにかと現場を振り回す考えなしな発言と執務へのやる気のなさが評判の“無能殿下”。
(ただの無能なら、捨て置くことや完全なるお飾りとして公務から外せるものを)
その一見侮れぬ者に見える容姿に加えて、穏やかな表情と掴みどころのない受け答え。
これが外交の場では、腹の内でなにを考えているのかわからないと相手にどこまでも勝手に深読みさせる。
類まれなる強運も手伝って、敵対国とあっさり講和締結などといった奇跡のような功績を公務の場に出て早々上げてからというもの、周辺諸国にその経緯評判が瞬く間に伝わった。
警戒心からますます一挙一投足を深読みされ……信じられないことに、“晩餐会に招かれればワインではなく条件を飲ませられる”といった噂を周辺諸国に響かせるほど、いまや偶然とは言えない頻度で功績をあげている。
顔と穏やかな性格から、国民からの人気もそこそこあるため、公務から外したくても外すことができない。
(なんだかんだで憎めない方でもあるし、まったくもって質が悪い)
「恐れながら殿下。エスター=テッヘン家は、我がオトマルク王国前身の小国から続く伯爵家です」
「資産もあまりなければ、王宮とも疎遠な弱小伯爵家だよね?」
「はい。しかしながら、その血縁関係を辿っていけば、遠く細いとはいえ周辺諸国の様々な王侯貴族の家と繋がります。その歴史と血縁関係は蔑ろにできるものではありません」
「それはすごいね。由緒正しいね!」
しかし、この国の文官達は皆知っている。
この殿下、本当になにも考えてはいないということを!
「……」
能天気な感嘆に無言になってしまった法務大臣を見かねて、内務大臣がごほんと咳払いをした。
場の注意は彼へと移る。
「殿下、一部の現場を担う文官の疲弊は深刻です。マーリカ嬢も二十五連勤による精神錯乱があった模様。それ故のあっぱれな……いえ、まったくもって遺憾な振る舞いをしてしまったようで……」
「殿下、マーリカ嬢は貴族令嬢でありながら、平民階級の部下の信頼も厚く、高い実務能力を持った将来有望な文官。それ故、それ故の過ち!」
「殿下、まだ二十歳を迎えたばかりの令嬢です。ここは一つ寛大さを見せ、より一層王家の為に働かせることで過ちを贖わせては」
大臣達は口々に進言する。
いま、彼らは派閥や利権の垣根も超えて一致団結していた。
(優秀かつ人望もいざという時の他国との伝手もある文官を、お前のせいで失ってなるものか!!)
幸い、由緒正しい家の伯爵令嬢。
貴族の娘であれば、寛大に処すべき理由は屁理屈でもなんでもつけられる。
「殿下がお怒りになるのも至極ごもっとかと存じますが」
「別に怒ってないよ」
「は?」
気を取り直して再び場をまとめにかかった法務大臣の言葉に対する、きょとんと不思議そうな表情でのフリードリヒの返しに、法務大臣の口から素の声が漏れた。
「男装の麗人ってきっとマーリカ嬢みたいなのを言うんだろねえ……綺麗で凛々しくて、伯爵令嬢だからって一介の文官の身で物申しにくる勇敢さ。惚れ惚れしちゃうよ」
「はあ」
「だって第二王子だよ私。普通は説教なんてしないでしょう。でもさあ、人間怒られなくなったら終わりって、兄上もよく仰ってるじゃない」
「はあ」
「それなのに君たちときたら、こんな欠席裁判みたいな会議なんか開いちゃって……老害って言われちゃうよ? 人は大事にしないと!」
(いや、元凶のお前が言うなよ! そもそも我々は彼女を庇っていた!!)
大臣達は絶句し、その心の声は完全一致する。
しかし、心の声なのでフリードリヒの耳には聞こえるはずもなく。
室内は、奇妙な静寂に包まれた。
「――欲しい」
「殿下……?」
不意に。
どこかうっとりした声が響いて、内務大臣は眉を顰める。
「マーリカ・エリーザベト・ヘンリエッテ・ルドヴィカ・レオポルディーネ・フォン・エスター=テッヘン嬢が、欲しい」
「っ……!!」
組んだ両手に顎を乗せ、件の令嬢のフルネームを正確に、にこやかに呟いたフリードリヒに場は一気に騒然となった。
「いや、そんな急に申されましてもっ!」
「手続きっ、手続きというものが……っ」
「そもそも殿下の一存ではっ!」
「え、そんなに大変?」
(当たり前でしょうっっ――!)
大臣達の声が、今度は耳に聞こえる形で重なる。
貴族の娘であるからといって、王子妃になど簡単になれるわけではない。
様々な審査、様々な手続き、様々な調整が必要であることくらい。
二十半ばを迎えても婚約者すら決まっていない、フリードリヒ自身がよくわかっているだろうに。
「えーそうなの!? 私の筆頭秘書官なのに?」
「秘書、官……?」
「うん。辞めて三ヶ月経つけどまだ後任決まってなかったよね?」
はああ……っと、その場にいた大臣の誰もが息を吐く。
なかには気が抜けてテーブルに突っ伏した者までいたが、フリードリヒは特に気に留めなかった。
「ああ……その」
「そういうことでしたら」
なんとかしましょう。
ええなんとか。
なんとかなりますな。
しかし、最も過酷な職務とその肩書きを聞いただけで、震えて涙を浮かべる文官もいると聞くが。
いやいや噂にしても流石にそれは軟弱すぎだろう。
まあある意味処罰として妥当では。
「ひそひそ話合ってるけど、なんとかなりそう?」
「殿下の御心のままに」
「やった! 愛情の反対は厳しさではなく無関心って、兄上もよく仰っているよ……うふふ」
「殿下、善良なお人柄であるのは重々承知しておりますが、くれぐれも
「起こさないよ。これでも私は社交界で“いい人止まり”なんだよ」
「それは、自慢されることではございません」
「……難しいねえ」
こうして、ある一人の文官令嬢の人事が決まった。
――マーリカ・エリーザベト・ヘンリエッテ・ルドヴィカ・レオポルディーネ・フォン・エスター=テッヘン。貴殿を第二王子付筆頭書記官に任命する。
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