【書籍化】忙しすぎる文官令嬢ですが、無能殿下に気に入られて仕事だけが増えてます

ミダ ワタル

第一部

episode1−1 忙しすぎる文官令嬢、疲れて事件を起こす

 終わった――。

 わたしの文官人生、終わった……。


 近衛騎士に指示された椅子に座って項垂れ、マーリカは虚ろに呟いた。

 通された小部屋は、マーリカが想像していたような殺風景な部屋ではなかった。小花柄の壁紙やカーテンが可愛らしい、貴族女性がちょっと装いを直したり、あるいはお供の侍女達が待機する控室のような部屋だった。


「マーリカ・エリーザベト・ヘンリエッテ・フォン・エスター=テッヘン嬢」

「……はい」


 名前を呼ばれて、項垂れていた頭をマーリカはのろりと持ち上げる。

 小さなテーブルを挟んで、華奢な椅子には体格の良すぎる美丈夫の近衛騎士がマーリカの正面に腰掛けている。彼が取調官だろう。


(古くから続く貴族というだけ、お金も権力もない弱小伯爵家の三女でも、こうも気遣っていただけるとは)


 我に返った時、マーリカは近衛騎士に拘束されて床に膝をつき肩で息をしていた。目に映ったのは、壁を背にして床に尻餅をついている第二王子の姿。

 顔の良さもあって妙に可愛らしく見えた彼は、信じられないといった驚きに目を見開いて、赤く腫れぼったくなった両頬を手でさすりながらマーリカを凝視していた。

 

(疲労も頂点。若干正気を失っていたとはいえ。あの無能――第二王子の胸ぐら掴んで、平手打ちを往復で数回……)


 マーリカは、いま、王族に危害を加えた現行犯で三人の近衛騎士に囲まれている。これから取調べのはずだが、一介の文官としての普段の扱いよりむしろ丁重だとマーリカは思う。

 座っている椅子も耐久性重視の木の椅子ではなく、王宮の客間によくある優美な椅子だった。

 

 向かい合っている近衛騎士の肩越しに、別の近衛騎士がいる。

 おそらく記録係だろう。書き物机に紙とペンを用意している。

 マーリカの目の端にもう一人、別の近衛騎士の姿が映った。

 斜め右の位置に、マーリカの護衛のように立っている。


(たぶんわたしが逃げ出したり、あるいはなにかしでかさないか見張っているのだろうな)


 三人の近衛騎士達は、それぞれ役割に応じた様子でマーリカへと目を向けている。厳しい目ではなく、なにか痛ましいものを見るような眼差しだった。


(連日の激務であまり身の回りを構っていないし、暴れて取り押さえられ、貴族令嬢としてあるまじき姿になっているだろう……無理もない)


 なんとなく他人事のように我が身について考え、だがまあ今更だとマーリカは胸の内でひとりごちた。


(令嬢だからと侮られぬよう、普段から男装で、話す言葉も男性の言葉遣いで立ち働いてもいるし)


 それだけでも、令嬢としては十分ありえない。

 おまけに二十五連勤の疲労でマーリカの顔は蒼白を越して若干青黒さを帯び、黒い瞳が美しい目の周りには隈が浮かんでいた。

 きっちり引っ詰めた黒髪は錯乱した振る舞いによって崩れ、衣服もマーリカを拘束しようとした近衛騎士に抗ったためによれよれになっている。


(彼等が普段警護したりお付き合いするような伯爵令嬢といえば、美しく装い淑やかに優しい微笑みを絶やさないでいる女性だろうし)


 王宮の文官組織の多くは男性だ。

 数少ない女性も王宮が募集をかけて雇い入れた雑務を行う者か、優秀な人材を登用しようと設けられている試験を受けて採用された平民女性で、マーリカのような貴族女性はたぶんいない。

 王妃や王女の側仕えや女官や行儀見習いのご令嬢は別として、そもそも貴族令嬢にせかせか働くといった考えはない。

 王宮に上がる歳になるまで行儀作法や教養を身につけ、社交界デビューの歳を迎えれば夜会やお茶会に忙しく、やがて釣り合いのとれた相手との縁談や上位の相手に見染められて結婚する。

 おっとりと暢気で美しい、マーリカの母や二人の姉がそうであるように。 


(男装で愛想もなく、激務で肌荒れして、取り押さえられて髪も服もよれよれなんて姿は、彼等の常識からいって令嬢として哀れに思えるのかもしれない)

 

「取り返しのつかないことをしたことは自覚しております。罪に身分は関係ないかと。どうぞわたくしが伯爵家の令嬢などと思わず尋問くださいませ」


 放心したあまり、忘れかけていた令嬢の部分が現れたらしい。

 マーリカが彼女としても何年ぶりかになる令嬢言葉で力なくそう言えば、近衛騎士たちの眼差しに浮かぶ憐れみが一層深くなった。


「あの……それから」

「ん?」

「先程仰ったわたくしの名前は省略名です。記録文書ですから正確な名前を記すのがよろしいかと。マーリカ・エリーザベト・ヘンリエッテ・ルドヴィカ・レオポルディーネ・フォン・エスター=テッヘン。長い名前で申し訳ありません。枝分かれた複数の親族から名を取る慣わしなもので」


 もはや職業病ともいえる几帳面さを発揮して、そう言い添えたマーリカに取調官の近衛騎士がため息を吐く。

 その時、部屋のドアが軽くノックされ、また一人、近衛騎士の制服をきた若者がやってきた。

 どうやら使いのようで、足早に取調官の騎士に近づくとなにやら耳打ちし、彼が頷きで応じたのを確認すると、若者は一礼してまた足早に部屋から出ていった。


「フリードリヒ殿下について、我々も知らないわけではない。貴女のような人があの無能……ゴホン、失礼。殿下にこれ以上なにかといった心配はないでしょうし、今夜はもう遅いですから一通りの事実確認だけで」

「遅い?」


 マーリカは上着の隠しから、繊細な紋様が彫られた小さな銀時計を取り出す。

 文官として王宮に出仕することが決まった際に、父親から譲られた時計が示す時間を確認して、マーリカはわずかに眉を顰めた。


「まだ定刻から一時間ほどしか過ぎていませんが?」


 完全に口調は文官のそれに戻ったマーリカに、取調官の近衛騎士は緩やかに首を横に振る。


「手早く済ませましょう。いま我々が貴女に与えるべきは裁きや罰ではなく“休息”です」

「はあ」

「命大事に」

「どうも」


 かくして彼女は、簡単な事実確認だけで解放された。

 とはいえ王宮内で見張り無しとはいかないらしく、官舎まで護送はされたけれど。それにしても食堂で夕食を取れるまともな時間に官舎に戻るのは、かなり久しぶりのことだった。


(だめだ……温かい食事をとったら力尽きる……)


 いまにも倒れそうな眠気に抗いながら自室に辿り着き、ベッドの上で力尽きたマーリカはそのまま朝まで泥のように眠った。

 翌朝、特に謹慎や召喚命令なども届いていないことを確認し、マーリカはいつも通りの早朝出勤で職場へと向かった。

 王子に不敬を働こうが、拘束されたり何の命令もない以上。

 仕事は待ってはくれないのである――。



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