7-6 噛みつき姫は選び取る

 何やら大きな音が屋敷の空気を震わせた。


 屋敷の中で何かが起きていると確信し、音の発生源と思われる部屋にフレーデガルが駆けつけたとき、そこはすでに異様な雰囲気に包まれていた。

 調度品は床に散らばり、破片と化して広がり、綺麗に設置されている家具はなぎ倒されたかのように倒れている――誰かが大暴れしたかのように荒れた室内だけでも異様な空気を感じ取れた。


 だが、それ以上にフレーデガルが異常だと感じたのは空気だ。

 肌を撫でていく空気が重く、息を吸い込むたびに肺の中へドロリとした重く黒い何かが溜まっていくかのような感覚がする。

 己のテリトリーといえる場所に立っているはずなのに、見知らぬ場所へ放り出されたかのような不安となんともいえない緊張感、そして妙な圧迫感が場を支配していた。


「フレーデガル様」


 異様な雰囲気に満たされた中、すっかり聞き慣れた声がフレーデガルの耳に届いた。

 ぐちゃぐちゃに荒れた室内で怯えきった顔をしているヴィヴィアに対し、彼女を抱えているイツカは落ち着いた顔でこちらを見てきている。

 最初はイツカがヴィヴィアに何かをしたのかとも考えたが、彼女一人では動かせそうにもない家具までなぎ倒されているのがイツカが騒ぎの原因ではないという証明をしていた。


「イツカ様、チェスロック嬢、これは一体――」


 何があったのですか。

 そう続くはずだった言葉は、最後まで紡がれずに途切れてしまった。

 フレーデガルがイツカとヴィヴィアへ声をかけた瞬間、全身に鳥肌がたった。

 この場にはイツカとヴィヴィア、そしてヴィヴィアが連れてきたと思われるメイドしかいない。

 だというのに、フレーデガルが二人の令嬢へ声をかけた瞬間、恐ろしい気配を放つ何かに睨まれたかのような感覚に陥った。


 何もいないはずの場所から異様な視線を感じ、フレーデガルの呼吸が緊張と不安で細くなる。早くこの場から逃げ出せと本能が叫んでいるが、騎士としての己を奮い立たせ、両足にぐっと力を込めた。


「フレーデガル様、下がってください。この場は少々危険ですので」


 凛とした声でそういいながら、イツカがぱたぱたとこちらへ駆け寄ってくる。

 こちらに向けられた声を耳にした途端、はっと我に返り、恐怖で凍りついていたフレーデガルの意識が引き戻された。


「それから、チェスロック様のことをお願いします。この部屋に入れないように、けれど決して逃してしまわないように見ておいてほしいのです」

「それは構いませんが……イツカ様、一体何があったのですか?」


 イツカの言葉に答えながら、フレーデガルはもっとも気になっていることを問う。

 答えを教えてもらっても理解できるかわからなかったが、屋敷の主として――そして純粋に何が起きているのか知りたいと願う者として尋ねずにはいられなかった。

 イツカの腕から怯えきって小刻みに震えているヴィヴィアを受け取り、この場で唯一平然としている彼女を見つめる。

 対するイツカは小さく唸りながら何やら考えていたが、やがて荒れ果てた室内へ視線を戻した。


「世界には、理解するのが非常に難しいと感じるようなことが溢れています」


 かつり、こつり。軽やかな足音をたて、イツカが部屋の奥へ歩を進める。

 瞬間、彼女から離れた位置にある家具が音をたて、わずかに宙を舞った――まるで、見えない巨大な何かが叩きつけられたかのように。

 獣が唸るかのような声が、心底楽しげな狂気を感じさせる男性の笑い声が、かすかにフレーデガルの鼓膜を震わせる。


「その中の一つが、呪詛や穢れと呼ばれるもの。人が抱く負の感情や悪意、それらに満ちた魔法から生み出されるエネルギーのようなものが織りなす世界。……はじめてお会いした日にも言ったでしょう、わたしたちクラマーズ家は代々不可視の存在に対する対抗策を受け継いでいる、と」


 イツカの言葉を耳にした瞬間、フレーデガルの脳裏にはじめてクラマーズ領へ足を運んだ日を思い出した。

 そうだ。確かにはじめてイツカと出会ったあの日、彼女は確かにそういっていた。

 クラマーズ家は皆が皆、不可視の存在へ対抗するための力や手段を持っている。イツカの両親いわく、彼女は特に色濃くその力を受け継いでいる――とも。


「フレーデガル様を長く悩ませていた一連の現象も、呪詛や穢れ、そしてそれらのエネルギーを使った悪意の魔法――呪いを使ったもの。それもただの呪いではなく、人工的に作られた怪異……そうですね、呪詛や穢れの上位存在といえる存在の力を借りたものでした」


 何の話をしているのかと一瞬思ってしまったが、すぐに気づいた。

 イツカの唇から淡々と紡がれている話は、フレーデガルが彼女に頼んでいた調査の結果だ。


 呪詛や穢れ。人の負の感情や悪意から生み出されるエネルギー。それらの上位存在といえる怪異。

 フレーデガルが全く知らなかった――けれど、イツカはずっと見つめていた世界。


 正直、急にそういうものがあると言われてもすぐには信じられないが、言葉では説明できない不可思議で不気味な現象に長く悩まされていた。

 その調査を依頼したイツカが語ることだ。これらの話は冗談ではなく、本当のことなのだろう。


「そして、今。この部屋の中に、フレーデガル様を害し続けていた怪異が存在しています」


 イツカがそういった瞬間だった。

 散らばり、壊れ、ぐちゃぐちゃになった家具の上の景色が不自然に揺らぎ始める。

 空気の重みが増していくにつれて、その揺らぎはより大きなものへと変化していく。

 一つ瞬きをした瞬間――壊れた家具の上に、さまざまな獣をツギハギしたかのような、不気味で巨大な獣の姿がフレーデガルの目に映った。

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