7-5 噛みつき姫は選び取る
「――え?」
突如、後ろから何者かの影が落ち、ヴィヴィアが振り返る。
真っ先に視界に飛び込んできたのは、唾液で濡れ、てらてらと光る鋭い牙だ。ところどころが赤黒い液体で汚れたそれがずらりと並んでおり、生臭さを感じる空気がヴィヴィアの頬を撫でた。
ゆっくり視線を上に持ち上げれば、見えたのは幼い頃からずっと傍にいた不可思議な友人の目。幼い頃からずっと傍にいてくれた友人と同じ目をした巨大な獣が大口を開け、今にもヴィヴィアへ食らいつこうとしていた。
思考が停止したのは、ほんの一瞬。ほんのわずかな時間。
かすかな時間を置いたあと、自分の背後に何がいるのか理解した瞬間、ヴィヴィアの喉がひゅっと音をたてた。
「きゃあああああ!?」
「ヴィヴィア様!」
ヴィヴィアが悲鳴をあげる。
同時に、彼女の細い首を食いちぎろうと鋭い牙がヴィヴィアに迫る。
彼女の傍にいたメイドも、そしてヴィヴィア本人も、獣の牙に食いちぎられて絶命する瞬間を脳裏に描いた。
「イリガミ様!」
『待ァッてたぜェ!』
イツカがイリガミ様の名を叫びながら、勢いよく立ち上がる。
瞬間、ずっと身を隠していたイリガミ様がイツカの影から飛び出し、姿をあらわにした。
『ずぅっとずぅっと腹ァ空かせてたんだよなァ!』
歓喜を隠しもしない声で叫び、イリガミ様はヴィヴィアへ食らいつこうとした獣に飛びかかった。
ヴィヴィアに食らいつこうとした獣も大きいが、今のイリガミの身体はそれよりもはるかに大きい。普段は大型犬より一回り大きいくらいの体格だが、今は人間の一人や二人、簡単に飲み込めそうなほどに大きかった。
しかし、その身体や四肢はやはり不自然なほどにやせ細っている。目の前に存在する獲物を見据える目も普段よりギラついており、見る者全てに恐怖を与える威圧感を放っていた。
『ギィィィィ――!』
イリガミ様の牙が容赦なく獣の首元に食い込む。
それなりの大きさはあるはずの身体を簡単に持ち上げ、イリガミ様は獣を壁に向かって乱暴に放り投げた。
獣の巨体が簡単に宙を舞い、壁に叩きつけられる。部屋に置かれている調度品ががしゃんがしゃんと音をたてながら床に落下し、無数の破片へ姿を変えた。
すっかり怯えきってしまったヴィヴィアとメイドの傍へ駆け寄りながら、イツカはちらりと横目で獣を――本性を現した人工怪異を見る。
ローレリーヌの部屋でも一度姿を見ているが、改めて見てみると『歪な生き物』という感想を抱く姿をしていた。
全体的なシルエットは巨大な獣だ。しかし、頭部は犬や狼、胴体は猫、四肢や尻尾は狐とさまざまな獣を寄せて繋ぎ合わせたような姿をしている。
さらに、横腹からは狼の足が生えており、複数の獣を無理に繋ぎ合わせて縫い合わせたかのような――奇妙で歪な姿。
どす黒い呪詛や大量の穢れをまとったその姿は、怪異という言葉が似合う姿をしている。
(人工的に作られたせいか、自然と発生した怪異よりもすごく歪で不気味な姿をしてる……)
思わず眉間にシワが寄るのを感じながら、イツカは怪異を見つめたまま動けなくなっているヴィヴィアの身体に触れた。
ちょうどそのタイミングで、怪異の目がぎょろりと動き、ヴィヴィアの姿を映し出す。瞬間、怪異の顔だけでなく身体にも無数の目が現れ、ぎょろぎょろ動いたのちに全ての目がヴィヴィアを見た。
ひ、と恐怖で引きつった声がヴィヴィアの喉から溢れた。みるみる間に彼女の表情がより強い恐怖で彩られていく。
「失礼します、チェスロック様」
本性を現した怪異は、完全にヴィヴィアを食らう対象として見ている――。
それを肌で感じ取り、イツカは一言断ってからヴィヴィアの両足の下に手を入れた。もう片方の手は彼女の背中に回し、立ち上がりながら彼女の身体を持ち上げる。
いわゆる横抱きでイツカがヴィヴィアを抱き上げた瞬間、人工怪異が床を蹴り、イツカへ飛びかかった。
だが。
『おいおい、俺を無視するたァいい度胸じゃねェかァ?』
『ギィィィィ――!』
怪異の牙がイツカとヴィヴィアに届くことはない。
イリガミ様がすかさず怪異へ飛びかかり、再度首元へ食らいつく。容赦なく牙を食い込ませ、再度軽々と壁に向かって投げつけた。
がしゃん、がだん。大きな音をたて、射線上にあったテーブルや椅子が次々になぎ倒され、棚や飾られていた調度品が倒れて破損した。
軽やかな動きでイツカの傍に立ち、イリガミ様がちらりと部屋の出入り口へ視線を向けた。
『おひいさん。ちょいと下がってなァ。おひいさんとあの坊主がどうするか決める前にそいつに何かあったら納得できないだろォ』
「ええ、もちろん。あなたもこちらへ」
ぎゅっとヴィヴィアを落とさないよう、しっかり抱え直す。
そうしながら、イツカはヴィヴィアの傍にいたメイドにも声をかけた。
強い恐怖に彩られた表情でメイドが頷いた――そのときだった。
「一体何事だ!?」
こちらへ近づいてくる足音が聞こえ、ばたんと勢いよく扉が開かれる。
ばっと弾かれたように視線を向ければ、すっかり見慣れた姿がイツカの目に飛び込んできた。
「フレーデガル様」
フレーデガル・ネッセルローデ。
イツカたちが滞在する屋敷の主であり、今回の依頼主である彼の姿がそこにはあった。
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