最終話 噛みつき姫は選び取る
7-1 噛みつき姫は選び取る
かつり、こつり。己のものではない軽やかな足音がイツカの鼓膜を震わせる。
こちらへと向かってくる足音を耳にした瞬間、イツカはゆっくりと顔をあげて音が聞こえてくるほうに視線を向けた。
「こんにちは、チェスロック様」
フレーデガルがいる執務室へ向かう途中でイツカと出会うとは考えていなかったのだろう。
足音の主であるヴィヴィアは一瞬目を丸くしたが、すぐにまた穏やかな笑みを浮かべた。
「こんにちは、クラマーズ様。体調を崩されたと耳にしておりましたが、具合はいかがですか?」
柔らかい声で言葉を紡ぎ、ヴィヴィアがわずかに首を傾げる。
こちらを見つめる目はどこまでも心配そうなもので、先ほど彼女が紡いだ言葉と合わさってイツカが寝込んでいたことを誰かから聞いていたのだろうと簡単に予想ができた。
内心で自分自身へ苦笑いを浮かべ、けれど表面上は穏やかな表情を維持したまま、イツカは言葉を続ける。
「ええ、このとおり元気になりました。お騒がせして申し訳ありません」
「いいえ。クラマーズ様は遠く離れた場所からこの地へやってきているとお聞きしました。一時的とはいえ、慣れない環境での暮らしに疲れを感じてしまうのも仕方ないでしょう。どうかご無理はなさらず」
「ありがとうございます。ですが、いつかはここで暮らすことになる身ですから。少しでも早くこちらの環境に慣れなくては」
自身の胸に手を当て、ほんの少しだけ苦笑を浮かべてイツカはヴィヴィアへそう返した。
瞬間、ヴィヴィアの目の奥でかすかに何かの光が揺らぐ。しかし、すぐにその光も奥へ押し込められ、元の優しげな目へと戻った。
「ふふ、クラマーズ様がネッセルローデ侯爵様と一緒に暮らすようになれば、いつでもお会いできますね。お茶会もご一緒に楽しめそうですし……あ、そうだ」
ふと、ヴィヴィアが何やら思い出したような顔をし、紡いでいた言葉を止める。
胸の前でぱちんと両手を重ね合わせるようにして叩けば、彼女の後ろに控えていたメイドがすかさず小さめのケーキ箱を取り出した。
シンプルな白いケーキ箱にはリボンのイラストが描かれており、ヴィヴィアが手土産として持ってきたと簡単に想像できる。
「私、クラマーズ様のお見舞いにケーキを持ってきたんです。よければいかがですか?」
てっきりフレーデガルへ持ってきたものかと思えば、イツカへの手土産。
お見舞いのつもりだったとはいえ、フレーデガルではなくこちらへ向けて用意されたものだとは少々予想外だった。
イツカはほんの少し目を丸くしたが、すぐにきらりと目を輝かせ、花が咲いたかのような笑顔を浮かべた。
「いいんですか? わざわざありがとうございます、チェスロック様。であれば、わたし、お茶の準備をお願いしてきますね」
「あら、お茶の準備ならこちらのメイドにお願いしますから。まずは一口、いかがですか?」
厨房へ向かおうとしたイツカを呼び止め、ヴィヴィアがそういう。
足を止めて彼女へと振り返り、イツカは少しの間きょとんとした顔でヴィヴィアを見つめていたが、ふわりとまた表情を緩ませた。
普段なら決して選ばない選択肢だが、わざわざ向こうが提示してきたのだ。何かが隠されている可能性が非常に高い。
「……お言葉に甘えてもよろしいのであれば、ぜひ」
であれば、あえてそれを選んでみるのもいいだろう。
表情には笑顔を浮かべたまま、心の中で判断し、一人頷く。
(それに、チェスロック様には少しでも早くお話をお聞きしたいところだし)
向こうが二人きり、もしくは限られた人数になるチャンスを与えてくれるのであれば、逃さないようにしたほうがいい。いつでも二人きりになれるチャンスがやってくるわけではないのだから。
イツカが静かに思考を巡らせている間、対するヴィヴィアは安心したように表情を輝かせ、イツカと同様に柔らかく笑った。
「もちろんです。こちらが用意したものなのですから、お茶会の準備もこちらでするべきだと思いますしね。クラマーズ様にも、ローレリーヌさんにも、あまり無理をさせるわけにはいきませんから」
「本当にすみません。ありがとうございます」
「こういうときはお礼の言葉だけでいいんですよ。では、こちらのお部屋で」
笑顔で言葉を紡ぎながら、ヴィヴィアは応接室の扉をそっと開いた。
応接室の中は今日も綺麗に片付けられており、イツカとヴィヴィア、そして彼女が連れているメイド以外に気配は感じられない。
イツカとヴィヴィア、二人が周囲をほとんど気にせずに会話ができそうな状態だとひと目見ただけでわかった。
静かな部屋の中を歩き、用意されているソファーへ腰かける。ヴィヴィアも対面のソファーに座り、イツカと向かい合う。
そして、小さく胸を叩き、傍にいたメイドへ視線を送った。
「じゃあ、お願いできる?」
「かしこまりました」
ヴィヴィアの傍にいたメイドが一礼し、イツカの前に持っていたケーキ箱を置いた。
取っ手近くに貼られていたシールを剥がし、箱を開く。中にはシンプルなショートケーキが一切れ入っていた。
卵色のスポンジに真っ白なクリーム。スポンジとスポンジの間にはたっぷりのクリームと赤い苺が挟まっており、見るだけで食欲を誘う。白いクリームの上にも苺が飾られており、みずみずしく新鮮なミントも添えられていた。
箱の中からショートケーキが移され、イツカの前へ改めて出される。最後にフォークが皿の傍に添えられる。
いつでも食べることができる状態に整えると、メイドが静かにヴィヴィアの傍へと戻っていった。
「ありがとうございます、チェスロック様」
「いえいえ。クラマーズ様のお口に合うといいのですが……」
どうぞ、と。ヴィヴィアが片手でケーキを示し、声なき言葉でイツカにケーキを勧める。
イツカも用意されたフォークを手に取り、ショートケーキへ切っ先を入れる。ふわふわとしたスポンジとクリームが切り分けられて一口分の大きさになり、イツカの口へ運ばれる。
舌の上に広がるクリームの甘さと苺の甘酸っぱさ、そしてスポンジの柔らかさと優しい甘み。それらを感じたかと思った瞬間、舌を刺すような痛みにも似た違和感がイツカを襲った。
「ッ!」
思わずフォークを取り落とし、口元を押さえる。
ちらりと視線を向けた先で、ヴィヴィアが目を細めてうっそり笑っているのが見えた。
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