6-2 手がかりと真実確定

『――……ん』


 誰かが遠くでこちらを呼んでいる気がする。


『――……さん』


 ほとんどがぼやけて聞こえないけれど、不思議とこちらのことを呼んでいるのだとわかる。

 耳に馴染むその呼び方は、小さい頃からずっと繰り返されている呼び方だから。


『――……いさん』


 だが、どうして何度も呼ばれているのだろう。

 そもそも、今自分はどのような状態になっているのだろう。

 目の前が真っ暗で何も見えない。確か、フレーデガルと話していて、彼の手を取って――。


『いい加減に起きたらどうだァ? おひいさん』

「いっだ!?」


 ばちん。

 乾いた音をたて、額に鋭い衝撃と痛みが走った。

 まどろんでいた意識が一瞬で覚醒し、イツカは額に手を当てて飛び起きた。

 額に当てていた手をおそるおそる確認して、血が付着していないことにほっと胸をなでおろす。しかし、はたかれたと思われる額はひりひりした痛みを放っているため、軽いひっかき傷くらいはできているだろう。

 あとで鏡を確認しないと――心の中で呟いたとき、まどろむ意識の中でも耳にした声がイツカの鼓膜を震わせた。


『やぁっと起きたかァ。寝坊助だなァ、おひいさんよ』

「もう! 起こすときは優しく起こしてっていつも言ってるじゃないですか、イリガミ様!」


 枕元へ視線を向け、イツカは空いた片手でびしりとイリガミ様を指差しながら大声でそういった。

 そこで、ふと違和感を覚え、動きを止めた。


「……あれ?」


 数回ほど瞬きをし、ゆっくりと周囲を見渡した。

 枕元にはイリガミ様が座っている。そこまでは見慣れた光景だが、枕元の様子が普段と異なっているかのように感じた。わずかな違和感に反応して周囲を見渡せば、イツカに与えられた部屋とは異なる光景が目に飛び込んできた。

 落ち着いた雰囲気と色合いの調度品でまとめられたシンプルな部屋。イツカ個人の私物は置かれているが、普段過ごしている部屋とは違う場所に置かれている。まるで、急遽運び込んだかのような状態だ。

 部屋全体の雰囲気も可愛らしさを意識したものではなく、静けさを意識したものだ。

 それに何より、窓ガラスの向こうに広がっている景色が大きく異なっていた。


「ここは――」


 どこに連れてこられたのか、一瞬わからなくなったが――すぐにぴんと来た。

 この場所は、ローレリーヌの様子を見に行った際に足を踏み入れた場所。ネッセルローデ邸で働く使用人たちがゆっくり休めるようにと用意された離れだ。


「どうして、ここに……」

『なんだァ? 覚えてないのかよ、おひいさん』


 イリガミ様が意外そうな声を出しながら、イツカの枕元から離れる。

 わずかな爪の音をたてながらベッドから飛び降り、彼はイツカを見ながら言葉を続けた。


『お前さん、倒れてたんだよ。あの坊主と手ェ繋いだ瞬間に、呪詛をくらってなァ』


 その一言を耳にした瞬間、イツカは全てを思い出した。

 靄がかっていた記憶が鮮明になり、意識を失う直前に何が起きていたのか鮮やかに再生されていく。

 そうだ――あのとき。差し伸べられたフレーデガルの手を取った瞬間、彼にまとわりついていた呪詛や穢れが急に活性化し、こちらに襲いかかってきたのだった。


 突然すぎて何が起きたのか、脳が処理しきる前に気を失ってしまったが――どうやら、自分は呪詛の影響を受けて倒れてしまっていたらしい。

 身にまとっている寝間着の袖をまくり、確認する。幸い、気を失う直前、呪詛にまとわりつかれた腕には何の悪影響も残されていなさそうだった。


『大体は俺がなんとかしたから大丈夫だったけどなァ。あんまりにも突然だったから、お前さんを完全に守りきれはしなかった、悪いことしたなァ』


 そういったイリガミ様の様子は、人間であれば頭をかいて気まずい顔をしていそうだ。

 大体いつも愉快そうにこちらの様子を眺めているだけの彼だが、こんな表情もできたのか。わずかに驚いたイツカだったが、ふわりと表情を緩め、優しくイリガミ様の頭を撫で回した。


「いいえ。わたしが気絶程度で済んだのはイリガミ様がお力を貸してくれたおかげですので……それに、突然あんな風に活性化されたら反応も難しくなると思います。ですので、どうかお気になさらないでください」


 言葉を紡ぎながら、イツカは気を失う直前に目にした光景を改めて思い出す。

 もともと、フレーデガルを蝕んでいる呪詛や穢れは結構な量だ。人工的な怪異によってもたらされたものだとしたら濃度もかなりのものになる。その断片に牙をむかれ、気絶程度で済んだのはイリガミ様がなんとかしてくれたおかげだ。

 気が済むまでイリガミ様の頭を撫でたあと、そっと手を引っ込める。


「ところでイリガミ様、なんでわたしは本邸ではなくて離れのほうにいるのでしょう。それから、気絶してからどれくらいの時が――」


 こんこん。

 ふいにノックの音が響き渡り、イツカはぴたりと言葉を止めた。イリガミ様もわずかに耳を動かしたあと、ふっと幻であったかのように姿を消す。

 イツカが出入り口へ視線を向ければ、入室の許可を待たずにゆっくり扉が開かれた。


「失礼します、クラマーズ様――」


 聞き覚えのある声とともに、扉の向こう側から一人のメイドが姿を現す。

 赤みがかった茶髪を首の後ろで一つにまとめた彼女は、ぽかんとした顔でイツカをほんの少しの間見つめたあと、今にも泣き出しそうにくしゃりと表情を歪めた。

 まさかこちらを見ただけで泣き出しそうになるとは思わず、さすがのイツカもぎょっとした。


「あ、あの……タニアさん……?」


 一体何がどうしたのか。一つの疑問を抱えつつも、おずおずと彼女の名前を呼ぶ。

 すると、部屋に入ってきたメイドは――タニアはゆっくりと唇を動かし、歓喜と安堵に満ちた声で言葉を紡いだ。


「クラマーズ様……ようやくお目覚めになったんですね……!」

「……え?」


 タニアの唇から紡がれた言葉に、イツカは再びぽかんとした顔になる。


(ようやく……って、どういうこと?)


 まるで、イツカが倒れてから長く気を失っていたかのような言葉だ。

 しかし、もしそうだとするとタニアが部屋に入ってきた瞬間見せた表情にも少し納得できるものがある。身近にいる人が急に倒れ、しばらく目覚めない状況が続いていたとしたら、イツカだって似たような反応をする。

 ほんの少しだけ早鐘を撃つ心臓を押さえ、イツカはおそるおそるタニアへ問いかけた。


「……あの、タニアさん。今って何日ですか?」


 口にしたのは己の中で生まれた疑問を確信に変えるための問いだ。

 ぐしぐしと自身の目を軽くこすり、タニアがイツカの問いかけに答える。


「その、旦那様からクラマーズ様が倒れたというお話をお聞きしてから――」


 タニアから聞かされた日付に、イツカが大きく目を見開く。

 玄関ホールで倒れたあの日から、すでに三日が経過していた。

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