4-3 黒い靄糸を辿って

(……ここから溢れ出してきて、タニアさんの両手を覆い尽くしてたんだ)


 ふ、とイツカの表情がわずかに険しくなる。

 呪詛の影響によってついた傷には、たとえ塞がっていたとしても傷から呪詛が溢れてくるという特徴がある。タニアの手に刻まれた細かい傷には、確かにその特徴が現れていた。

 イツカの脳裏に、フレーデガルから事前に聞いた話がよみがえる。不運という形で細かい怪我をするようになった使用人の中にタニアが含まれているのだろう。


「クラマーズ様?」


 タニアが不思議そうな声色でイツカを呼ぶ。

 ぱっと顔をあげると、イツカはわずかに心配そうに苦笑を浮かべてみせた。


「ごめんなさい、ずっと気になってたんですけど……改めて見たら、結構傷があって、痛そうだなと思ってしまい……」

「ああ、それで……。あたし、昔っからそそっかしくて、うっかり怪我しちゃうこと多くって。お恥ずかしい限りです」


 そういって、タニアは恥ずかしそうに苦笑した。

 タニア本人は自身のそそっかしさから負った傷だと思っているようだが、実際のところはそうではない。全ては彼女に牙をむいた呪詛によるものだ。

 恥ずかしそうな苦笑を浮かべているタニアの手を優しくさすりながら、イツカは言葉を紡ぐ。


「わたし、よく効く手軟膏を持っているんです。手荒れが綺麗に治るってクラマーズ領では評判なんですけど……タニアさんの手に塗っても構いませんか?」

「えっ、いいんですか?」


 タニアがきょとんとした顔をして、けれどすぐにはっとした顔になる。

 慌てて周囲をきょろきょろと見回し、すぐ近くに仕事をしている使用人がいないのを確かめてから顔をそっとイツカへ近づけた。


「その……本当は駄目だと思うんですけど、お願いしてもいいですか? 大体塞がってるんですけど、やっぱり傷だらけなの気になるので」

 小さな声で囁かれた声に、イツカは小さく頷いてから一度手を離す。

「大丈夫ですよ。少々お待ち下さいね」


 その言葉とともに、イツカは己の懐に手を入れた。

 手軟膏を持っているのは嘘ではない。よく効くというのも嘘ではない。兄のコウカが遍歴の旅の中で集めてきた薬草を使って作り上げたこの手軟膏は、高い効き目で手荒れを治してくれると評判である。


 けれど、手軟膏はカモフラージュ。本命はタニアを静かに蝕んでいる呪詛の浄化だ。

 取り出した手軟膏のケースの蓋を開け、白いクリーム状の軟膏を指先にとる。甘やかな花の香りをほのかに漂わせる軟膏をタニアの手にのせるため、再度片手で彼女の手をとった。

 そして、軟膏がタニアの手に触れる直前。


(イリガミ様)


 音無きイツカの呼び声に反応し、イリガミ様の気配がイツカの傍に現れる。姿を見せないままタニアの両手を覆う呪詛に牙をむき、ぐありと大口を開けて呪詛へ食らいついた。

 呪詛があげた断末魔がイリガミ様の口の中へ消え、彼の喉が上下する。

 イリガミ様が口の周りをなめる頃には、数分前までタニアの両手を覆い隠していたはずの呪詛は跡形もなく消え去っていた。


「――はい、これで大丈夫です」


 丁寧に軟膏を塗ってから、イツカもタニアの両手から手を離す。

 タニアは何やら己の手を不思議そうに眺めていたが、やがてぱっと笑顔を浮かべた。


「ありがとうございます、クラマーズ様! これ、甘い花の香りがしていいですね!」

「ふふ、いいでしょう? 良い香りがするから使いやすいんです。よかったらお使いください」


 しっかりとケースの蓋を閉め、タニアへ手軟膏を差し出した。

 イツカの申し出に驚いたらしく、タニアが目をまん丸く見開いてぽかんとした顔をした。


「え、え……いや、その、いただけるのはすごくありがたいんですけど……! そのぉ……本当に、いただいてしまっていいんでしょうか」


 どこか申し訳なさそうな声でぼそぼそと言い、タニアはわずかに首を傾げる。

 少しだけ心配そうにも見える彼女を真っ直ぐに見つめ、イツカは大きく頷いた。


「お近づきの印にということで。それに、ずっと傷痕が残り続けているのも気になると思いますから。せっかく綺麗な手なんですし、傷だらけのままなのはもったいないです」


 コウカから手軟膏の調合について教えてもらっているため、今手元にある分を手放してもまたすぐに用意できる。


「材料が揃えばまた用意できますので、どうか受け取ってくださいな」


 そういって、イツカはタニアの手をとり、彼女の手のひらに手軟膏を置いた。

 タニアはおろおろとした様子を見せていたが、やがて落ち着きを取り戻し、己の手の中に収まっている手軟膏をじっと見つめる。

 少々強引な渡し方だったため突き返されるかと思ったが、タニアは大切そうに手軟膏を持ってはにかんだ。


「……ありがとうございます、クラマーズ様。大切に使わせていただきます!」

「もし途中でなくなったり、改めて必要になったりしたら改めてお声がけください。追加分を用意してお渡しいたしますので。引き止めてしまい、申し訳ありませんでした」

「あ、いえ! 素敵なプレゼントをありがとうございます! 残りのお仕事も頑張ってきますね!」


 深々と頭を下げたのち、タニアは今度こそイツカに背を向け、小走りにその場を立ち去った。

 どんどん小さくなっていく彼女の背中に軽く手を振って見送った直後、イツカの口元に浮かんでいた笑みがふっと消え去った。


「イリガミ様」


 タニアが去っていった方角を見つめたまま、イツカがその名を呼んだ。

 瞬間、廊下の空気がわずかに重くなり、ほんのかすかに不浄な気配も入り交じる。

 話している間に周囲にいた使用人たちも移動し、イツカ一人きりになった廊下の片隅。周囲にイツカ以外の人間がいないその場所で、不浄なる存在が姿を現した。


「今のお話、お聞きになりましたか?」

『あァ、もちろん』


 イリガミ様へ視線を向けず、イツカはさらに呼びかける。

 視線を話している相手へ全く向けない、場合によっては不快感を示されてもおかしくない状態だが、イリガミ様は楽しそうにくつくつと喉を鳴らして笑った。

 イツカが見つめる先へ同じように視線を向け、イリガミ様がにんまりと目を細める。


『あの小娘、貴重な情報を話していったなァ。屋敷の裏にある離れだったかァ?』

「はい。庭園から向かうことができるとおっしゃっていました。……タニアさんのお話が確かであれば、ローレリーヌさんの状態は非常に悪いと予想されます」


 きろり。イツカの目がようやくイリガミ様へ向けられた。

 己のすぐ傍に降り立ったイリガミ様を静かに見つめるイツカの瞳は、とても静かで真剣なものだ。


「イリガミ様。人一人を行動不能にするほど膨れ上がった呪詛であれば、イリガミ様も感じ取ることができるのではありませんか?」


 イツカの問いかけを耳にし、イリガミ様がますます楽しそうに目を細めた。口角が釣り上がり、心底楽しそうな笑みが深まる。


『ほォ? おひいさん、この俺を案内役にするつもりかァ?』


 イリガミ様の言葉に対し、イツカもゆっくり目を細めて唇の端を持ち上げた。

 にんまりとした笑い方はイリガミ様と非常によく似たものだ。


「道に迷う心配はありませんけど。少しでも早くローレリーヌさんのところへ向かうことができれば、イリガミ様も早くお腹を満たせます。イリガミ様にとっても悪いお話ではないのでは?」


 ぴくり。わずかにイリガミ様のまぶたが動く。

 次の瞬間、イリガミ様が大口を開け、ぎらぎらと輝く牙を見せながら大声でげらげらと笑い声をあげた。


『ははは! 一体どう返してくると思ったが、そう来たかァ!』


 からから、げらげら。ひとしきり笑い転げたのち、イリガミ様がぎらりと目を輝かせる。


『いいぜェ、おひいさん。お前の思い通りに動いてやろうじゃねェかァ。俺だっていつまでも腹が減ってンのは落ち着かねェからなァ』

「わあい! ありがとうございます、イリガミ様。イリガミ様は本当にお優しい方ですね」


 ぱっとイツカも笑みを浮かべ、両手をぱちりと合わせた。

 喜びを表に出すイツカのすぐ傍で、イリガミ様もくつくつ牙をならして笑った。

 上機嫌そうな足取りで一歩を踏み出すと、イツカはイリガミ様とともに庭園へ――正確にはローレリーヌが休んでいる離れへ向かうために歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る