4-2 黒い靄糸を辿って

「先輩が休んでるお部屋は、離れのほうにあります。どんな病気かわからないけれど、他のみんなに移したら嫌だって先輩本人が言ってたので……」

「離れのほう……」


 イツカはまだネッセルローデ邸に来たばかりだ。まだ屋敷内がどのようになっているのかも完全に把握できていない。離れといわれても、その離れがどこに存在しているのかわからない。

 タニアが口にした言葉を一部復唱しながら考えるイツカへ、タニアが頷いてみせる。


「今回みたいに使用人の誰かが体調を崩したとき、ゆっくり休めるようにって旦那様が用意してくれたんです。あたしたち使用人の中には、お屋敷に住み込みで働いてる子たちもいるので」


 主に療養場所として用意された場所なら、ローレリーヌが離れを希望するのも頷ける。

 体調不良の原因を病だと考えているのなら、まずは周囲に移さないように――と隔離するのも納得できる。

 自ら隔離されているのなら、離れの中にはローレリーヌ以外の人間がいる可能性は低いと考えてもいいだろう。呪詛や穢れの状態を確認する際、できるだけ他の人に見られないようにするイツカにとって都合がいい環境だ。


「その離れはどのような場所にあるのでしょうか?」


 タニアたち使用人たちからすれば、離れは仲間が休んでいる大事な場所だ。

 あまり信頼できない人間には教えてくれない可能性が高いが、ここまで話した感覚ではこちらに対して強い警戒心は抱いていなさそうに感じた。

 もしかしたら教えてくれるのでは――そんな希望を胸に尋ねたイツカの目の前で、タニアが窓の外へ視線を向けて答えた。

 窓ガラスの向こう側には、イツカが昨日歩いた緑と花々に彩られた庭園が広がっている。


「クラマーズ様は、もうお庭をご覧になりましたか?」

「はい。夜でしたが、少しだけ散策もさせてもらいました。隅々までお手入れが行き届いていて、夜間でも楽しめるように工夫されていて本当に素敵なお庭でした」

「本当に綺麗でしょう? うちの庭師が頑張って作った最高傑作なんですよ!」


 ぱ、とタニアが満面の笑みを浮かべ、どこか得意げな声色でそういった。

 イツカも夜間に目にした庭の様子を思い出しながら同意するように頷いた。

 実際、あの夜に見た庭は本当に美しかった。ライトアップされた花々が光り輝いているかのようで、空から無数の星が庭園へ落ちてきたかのようで、簡単に忘れられないくらいの美しさが存在していた。

 心底嬉しそうに笑っていたタニアだったが、すぐに異なる表情へ移り変わり、今度は片手の人差し指を頬に当てて何かを考えているかのような顔になる。


「でも、夜にご覧になったのなら目にしていらっしゃらないかもしれませんね」

「目にしていないかもしれない……とは?」


 ことり。わずかに首を傾げて尋ねれば、タニアが庭園からイツカへ視線を戻す。


「実は、離れへは庭園から向かえるようになっているんです。庭園から行けるようにすれば、あたしたち使用人でも通いやすいだろうって旦那様が考えてくださって」


 もう一度頭の中に庭園の様子を思い浮かべてみるが、思い浮かぶのはライトアップされた花々とガゼボから眺めた庭園の景色ばかりだ。いくら思い出そうとしても、どこかへ続いていそうな道は思い当たらなかった。

 すっかり考え込んでしまったイツカの姿から思い当たらないのだろうと判断し、タニアが内緒話をするかのような声量で囁いた。


「庭園の中央に噴水があるじゃないですか。あそこから伸びてる道の中に、お屋敷の裏に回り込める道があるんです。その道を歩いていったら、裏にお屋敷とよく似たデザインの離れがあって、そこがローレリーヌ先輩が休んでる場所なんです」


 タニアの声に耳を傾けながら、イツカは頭の中で想像する。

 庭園の中央にある噴水――イツカが庭園を散策した際も目にした噴水だ。あのときは噴水の前を通り過ぎてガゼボがある方角へ向かったが、あそこから他にも道が伸びているらしい。

 その中にあるネッセルローデ邸の裏へ回り込める道を歩いていけば、ローレリーヌがいる離れへ辿り着ける――大体の流れをしっかりと思い描き、大きく頷いた。


「わかりました。ありがとうございます、タニアさん」

「いえいえ。あ、お見舞いに行くならキッチンに寄っていってください! いつもお見舞い用のフルーツバスケットをシェフたちが用意してくれているので。もし道がわからないなら、キッチンのみんなにも聞いてみてください」


 お見舞い用に用意されているものがあるのなら、確かに立ち寄っておくべきだろう。

 頭の片隅にキッチンへ立ち寄るのをメモし、イツカはもう一度頷いた。


「何から何まで本当にありがとうございます。お仕事の邪魔をしてしまったのに」

「本当に気にしないでください。じゃあ、あたしはそろそろ仕事に戻りますね」

「あ、それなら最後に一つだけ」


 立ち去ろうとしたタニアを呼び止め、イツカは両手を伸ばす。

 傷だらけのタニアの手を包み込むように優しく握り、指先で彼女の手に刻まれた傷痕をそっと撫でる。

 何も見えない者から見れば傷を労っているようにしか見えないが、イツカの目にはタニアの傷痕から溢れるように広がっている黒い靄がしっかりと映っていた。

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