3-5 噛みつき姫の協力者

 扉を閉める音が空気を震わせる。

 傍にあった客室の中にヴィヴィアとともに足を踏み入れ、イツカは軽く息を吐いてから室内へ視線を向けた。

 とっさに近くの客室に入ってしまったが、室内には誰の姿も見当たらない。人の気配もなく、誰かが室内のどこかに隠れていることもなさそうだ。

 静寂に包まれた室内の空気は少々重く感じられるが、嫌な気配を感じさせる黒い靄は見当たらない。


(空気はちょっと影響を受けてるみたいだけど、これくらいなら問題ないかな)


 とはいえ、屋敷に散った呪詛の影響を受けているというのには変わりない。


(念には念を入れておこう)


 後々でヴィヴィアの体調に影響が出てしまってもよくない。

 イツカは懐から小さな箱を取り出し、中からお香を一本手に取る。小さな声で呪文を唱えて火を灯せば、ふわりと室内に穏やかなサンダルウッドの香りが広がった。

 瞬間、部屋を覆っていた空気から重苦しさが抜けていく。呪詛の影響を受けていた空気がどんどん浄化されていくのを感じ、イツカはほっと安堵の息をついた。


(持ち歩くようにしておいてよかった、これ)


 イツカが取り出したのは、場の浄化に使う特製の道具だ。

 見た目も使い方もよくあるお香と非常によく似ている。傍目から見れば、ただお香を焚いただけに見えるため人前でも使いやすく愛用している。

 一緒に持ち歩いていた携帯用の香皿に、ふわふわと煙を漂わせる棒状の香を置いてテーブルに設置する。

 室内に満ちる空気がすっかり浄化されたのを確認してから、イツカは入り口の前に立つヴィヴィアへ振り返った。


「お待たせしました、チェスロック様。こちらにおかけください」


 椅子を軽く引き、イツカは片手でヴィヴィアに着席を促した。

 ヴィヴィアはどこかぽかんとした顔をしていたが――は、と。イツカに声をかけられて我に返ったようだった。


「わざわざすみません。ありがとうございます、クラマーズ様」


 慌てて頭を下げて感謝の言葉を告げたのち、ヴィヴィアが椅子に腰かける。

 イツカも彼女と向かい合う席につくと、香皿を邪魔にならない位置に移動させた。


「さて……それでは、お話をお伺いしてもよろしいでしょうか?」


 ヴィヴィアを少しでも安心させるため、優しい声で声をかける。

 廊下と同じように口を何度か開閉させていたヴィヴィアだったが、やがて大きく深呼吸をする。サンダルウッドの香りに満ちた空気を肺いっぱいに吸い込み、吐き出したのち、ゆっくりと口を開いた。


「……こんなこと、信じてもらえるかわからないんですけど……」


 そう前置きしてから紡がれた言葉は、イツカを驚かせるには十分すぎた。


「先ほど、すごい悲鳴が聞こえたんです。お屋敷中に響き渡るような大きな悲鳴が」


 驚愕で目を見開き、イツカの呼吸がわずかに詰まった。

 屋敷中に響き渡るような大きな悲鳴。それに心当たりしかない。


「でも、メイドや執事の方々は驚いた様子がありませんでした。気のせいかなとも思ったんですが、気のせいで済ませるには声が大きくて……思い切って悲鳴が聞こえたほうに向かってみたら、クラマーズ様のお姿を目にしたんです」


 イツカが驚いている間にもヴィヴィアの話は続いていく。

 途中で一度言葉を止め、ヴィヴィアは目の前にいるイツカへちらりと視線を向けた。

 わずかな沈黙が再度二人を包み込む。

 何を言えばいいのか、どんな言葉を紡げばいいのかわからずに黙り込んでいるイツカの眼前でヴィヴィアが再度深呼吸をした。


(何を言われるだろう)


 まさか自分以外で呪詛があげた断末魔を聞ける者がいるとは思っていなかった。

 なんとかごまかしたいが、ヴィヴィアは気のせいで済ませるには難しいとすでに判断してしまっている。

 何より、はっきりとあの断末魔を聞いているのであればイツカがごまかそうとしても素直に納得してくれないだろう。


(上手くごまかせたらいいんだけど)


 わずかな緊張をごまかすため、イツカは自身の膝の上に乗せた手を強く握る。

 じっと見つめる先でヴィヴィアの唇が動き、音が発せられた。


「おかしなことを言っているのだと切り捨ててくださっても構いません。クラマーズ様、もしかしてクラマーズ様もあのような不気味な声を発するものをご存知なのではありませんか?」


 ヴィヴィアの唇から紡がれた言葉は、イツカが予想していたどの言葉にも当てはまらなかった。


「……へ?」


 イツカの口からぽかんとした声が発される。

 あの声は一体何だったのか、とか。

 何か知っているのではないか、とか。

 断末魔の正体について聞かれるのではないかと考えていたが、実際にヴィヴィアが発したのはそのいずれでもなかった。

 ぽかんとした顔をするイツカの目の前で、ヴィヴィアがさらに言葉を重ねる。


「だ、だってクラマーズ様がいらっしゃったところ、変な気配があったんです! でも、クラマーズ様のお姿を目にしたときは妙な気配が完全に消えてて……。クラマーズ様が何かしてくださったとしか思えないんです!」


 言葉を紡ぎながら、ヴィヴィアは両手をテーブルについて身を乗り出してきた。

 彼女の勢いに驚いて、イツカはヴィヴィアから少しでも距離を取ろうと思わず上体を後ろへそらしてしまった。

 だが、イツカの反応も気に留めず、ヴィヴィアはさらに言葉を重ねていく。


「今だって、このお部屋に入ったときは空気がなんだか重くて嫌だなって感じたんです。でも、クラマーズ様がそのお香をつけた途端、重たかったはずの空気が一気に軽くなりましたし……! クラマーズ様、もしかしてあのような存在への対処法をご存知なのではないですか!?」


 予想を超える反応にイツカは目を丸くすることしかできない。

 しかし、ヴィヴィアの唇から紡がれる言葉はどれも無視することができないものだ。

 イツカがいたところには変な気配があった、部屋に入ったときも空気が重く感じられた――彼女が口にした言葉が意味するのは一つ。


 ヴィヴィアもまた、呪詛や穢れ、怪異たちの存在を知ることができる人間だ。

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