2-4 侯爵の契約婚約者

 静かな客室に一人きり。ちょっとした寂しさも覚えそうな空間の中、イツカは肺の中に溜まっていた空気を全て吐き出すかのように深く息を吐いた。


「……まさか、こんなことになるなんて」


 荷物を床に移動させてから、ふわふわとしたベッドへ勢いよく倒れ込む。

 柔らかなシーツの海に身を任せながら、イツカは見知らぬ天井を見つめて小さな声で呟いた。

こんなことになるなんて調査を引き受けたときは全く予想できていなかったのだ。いろんな依頼を引き受けていろんな場所で調査をしてきたが、調査員ではなく婚約者候補なんて立場を与えられたことなんて一度もなかった。


 完全に予想していなかった展開を前に、もう一度深く息を吐きだしたイツカの頭上で、わずかにシーツが沈み込む感覚がした。

 一体誰が現れたかだなんて考えなくてもすぐにわかる。ネッセルローデ領に来てから、ずっと身を隠していたイリガミ様だ。


『あァ。さすがの俺も、これは安全に予想できていなかったなァ』


 イツカにとってすっかり聞き慣れた声が部屋の空気に溶け込む。

 天井に向けていた視線を動かし、わずかに頭上へ顔を向けてイツカは口を開いた。


「イリガミ様も予想できませんでした? これは」


 イリガミ様がわずかに動き、イツカの顔を覗き込んでくる。

 視界いっぱいに広がったイリガミ様の目は、相変わらずギラついているがどこか楽しげな光がちらついているように見えた。


『あァ。さすがの俺も、これは完全に予想できなかったなァ』


 イツカに答えたあと、イリガミ様は喉奥でくつくつ笑ってから口を開いた。


『長くいろんな人間を見てきたが、ここまで思い切った行動に出た奴はそうそう見なかったなァ。あの小僧、ずいぶんと本気のようだ』

「長く呪詛や穢れに悩まされてきた方ほど、解決できるかもしれないと思ったら思い切った行動に出ることはありますけれど……」


 まだ出会ってほんの短い時間しか共有していない相手に婚約者候補という大きな立場を与えるとは。フレーデガルの傍に長くいてもおかしくなさそうな立場も婚約者候補以外にあったかもしれないのに。

 ふ、と。イツカの眉尻が下がり、わずかに表情が曇る。


「……それだけ焦ってるっていうことなんでしょうか」

『それだけ焦ってるってことだろうよォ』


 イツカの呟きに対し、イリガミ様がすかさず答える。


『おひいさんだって見ただろォ? あの小僧に取り憑いた呪詛と穢れ、ずいぶんと屋敷内に飛び散っている』


 玄関ホールから廊下を歩き、この客室までの道のりでも黒い靄の存在を――呪詛や穢れの存在を捉えている。廊下だけでもそれなりの濃度であるように見えたため、部屋によってはもっと濃く呪詛や穢れに汚染されている可能性だってある。

 もしかしたら、使用人の中に色濃く呪詛や穢れの影響を受けている人もいるかもしれない。


「ええ、わたしも目にしました。ネッセルローデ様から事前にお話を聞いていましたが……ただお話を聞くだけと実際に目にするのはやはり大きく違う」


 フレーデガルから話を聞いた時点でも早急に対策するべきだと感じた。

 だが、こうして実際に現場を見てみると、状況はイツカの予想よりも上をいく。

 一言で言うのなら予想以上に悪い。


「術者の力はあまり強くないって思ってたんですけど、間違いなんでしょうか。弱い力の術者にしては呪詛が周囲に散りすぎてるというか……。イリガミ様、これってどういうことだと思います?」


 もし、こちらが前提として考えていたことが誤っていたのであれば考え直したほうがいい。

 そう考えてイリガミ様へ意見を求めるが、対するイリガミ様は目を細めてにやにやとした笑みを浮かべるだけだ。

 すんっと思わずイツカの顔が真顔になる。こういうときのイリガミ様は、こちらが何を尋ねても決して答えを与えてはくれない。イツカ自身がそれをよく知っている。


『さてなァ。呪詛も穢れも術者によって少しずつ動きが変わる、ある意味生き物だからなァ。生き物が常に型通りの動きをするとは限らねェだろォ?』


 案の定、にやにやとした笑みを崩さずにイリガミ様はそういった。

 明らかにこちらへ手を貸す気はないのだとはっきりわかる言葉に、イツカはますます遠い目になった。


『依頼者を苦しめてる呪詛がどんなタイプか、穢れはどんな性質か、考えんのもお前さんの仕事だ。ちょっと困ったからってすぐに俺に聞いてちゃ、いつまでも一人前にはなれねェなァ?』


 それは――まあ、確かにそうなのだが、ちょっとくらい素直に手を貸してくれたっていいだろう。

 内心ちょっとだけ不満に思いつつも、イツカはイリガミ様へ返事をする。


「イリガミ様、度々わたしを鍛えようとしますよねぇ……いや、この場合面白がってるのか」

『後者で正解だなァ』

「この野郎」


 全く、この憑き物は昔からこういうところがある!

 一瞬だけ令嬢らしくない言葉づかいになってしまったが、この場にはイリガミ様とイツカしかいない。令嬢らしくない振る舞いをしても、今なら怒られることはない。

 イリガミ様がこちらの顔を覗き込んでくるのをやめてから、イツカはゆるりとした動きでベッドから起き上がった。


「とりあえず、ネッセルローデ様とちょっとお話をしたいですね。こちらがどのように調査をするつもりなのか、それから屋敷内を調査のためにうろついていいか改めて許可をもらわなくては」

『本格的な作戦会議はそのあとかァ? おひいさん、今回はいつもより慎重にいくつもりなんだなァ?』


 イリガミ様がイツカの隣に座り、わずかに首を傾げる。

 いつものイツカなら、早々に調査を開始して解決を目指す。呪詛や穢れは長引けば長引くほど厄介な性質へ変化していく可能性があるからだ。

 だが、スピード解決ができるのは呪詛や穢れの性質がはっきりしている場合だ。型通りの動きをしていない可能性がある状態でスピード解決を目指すのは少々難しい。

 いつもどおりの解決法を目指さないのには、ほかにも理由がある。


「術者の力は強くなさそうなのに、呪詛や穢れの動きがちょっと違うような気がするという時点で、これまでの情報に当てはまらない可能性がありますから。今回は新手の敵と考えて対処したほうがよさそうと判断しました」


 手持ちの情報に当てはまらない行動をする敵ほど、相手取っていて恐ろしいものはない。これまでどおりの対処法で浄化しようとした結果、上手くいきませんでしたなんてことになってしまったら非常に笑えない。

 ぴ、と人差し指をたて、イツカはわずかに笑って言葉を続けた。


「違和感を覚えたら慎重に行動しろ、それが賢い狩りの第一歩だ。……昔、わたしに教えてくれたのはイリガミ様ですよ」


 イツカが呪詛や穢れに悩まされる人々へ救いの手を差し伸べるようになってすぐの頃、イリガミ様が右も左もわからないイツカに教えてくれたことだ。

 新たな宿主であるイツカがすぐに呪詛返しに遭って死なれては困ると言っていたが、彼の教えは非常に助けになっている。


 己の教えをまだ覚えているとは思っていなかったのか、イリガミ様の目が丸く見開かれる。

 だが、次の瞬間にはくっと表情を歪ませ、くつくつと牙を鳴らして心底楽しそうに笑った。


『まァだ覚えてやがったかァ。ずいぶんと昔のことだってのに、物覚えのいい娘っ子だなァ? 物覚えがいい奴は嫌いじゃあねェぜ』

「ふふん。わたしの大事な神様から教えてもらったことですから」


 悪戯っ子のように目を細めて笑ってみせれば、イリガミ様はますます楽しそうに声をあげて笑った。


『はっはっは! 本ッ当に面白ェ娘っ子だよなァお前さんはァ!』


 憑き物の中でもかなり力が強いイリガミ様は、多くの人間にとって恐ろしい存在だ。

 以前の宿主であるイツカの母も己の身に憑いているイリガミ様を恐れていた。

 母だけでない、母の家も、そして結婚相手であるクラマーズ伯爵の家族も、イリガミ様へ恐怖の目を向けていた。


 しかし、今の宿主であるイツカはイリガミ様にそのような目を向けることはない。怖がらず、怯えず、まるで家族や友人のように言葉を向けてくる。

 多くの人間に恐れられ続けたイリガミ様にとって、イツカは予想外な行動をする見ていて飽きない人間だ。

 楽しそうなイリガミ様を眺めたのち、イツカは小さく咳払いをして気を取り直す。


「ひとまず、今はそんな感じで動こうかと。場合によっては長丁場になっちゃいそうですが、よろしくお願いしますね。イリガミ様」

『今回は相当美味そうな獲物を喰えそうだし、付き合ってやるよ。せいぜい頑張るんだなァ』


 イツカが握り拳を差し出し、イリガミ様が片方の前足をイツカの手の上に乗せる。

 傍目から見ると、虚空に握り拳を差し出してくふくふと笑っている異様な光景だが――幸い、指摘する人物はこの部屋の中にはいなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る