2-3 侯爵の契約婚約者

「旦那様から、先日の夜会で気になる女性と知り合えたというお話を聞いたときはとても驚きました。婚約者候補として、ここへ招きたいと考えているのだというご相談を受けたときも」


 私たちがよく知る旦那様は、とても慎重なお方でしたから。

 そう言葉を添え、ベデリアはわずかに微笑みを浮かべた。だが、その表情もすぐに真剣な表情に隠されてしまい、なんともいえない緊張感が戻ってくる。

 けれど、フレーデガルのことを話した際の彼女の声色はとても柔らかく、そのときに感じたであろう嬉しさがはっきりと滲み出ていた。聞いている側にもその喜びが浸透しそうになるほどに。


「クラマーズ様」


 真剣な声色で、ベデリアがイツカの名前を呼ぶ。

 いよいよ本題に入るのか――内心、さらに身構えるイツカの視線の先で、ベデリアがゆっくりと頭を下げた。


「まだ婚約者候補という立場にあるあなたへ、このようなことをお願いするのは正しくないのかもしれません。しかし、どうしてもあなたへお伝えしたいことがあるのです」

「……なんでしょうか」


 緊張からイツカの声もわずかに固くなる。

 大きく深呼吸をする呼吸音のあと、ベデリアの唇が再び音を紡いだ。


「どうか、旦那様のことをよろしくお願いします」


 ベデリアの唇から紡がれた言葉は、イツカが予想していたものとは異なる内容の言葉だった。

 予想外の言葉に目を丸くし、イツカはベデリアを見つめる。

 発された声には強い懇願の色が込められていた。つまり、ベデリアは真剣に、本気で先ほどの言葉を口にしたのだろう。

 まだ婚約者候補という立場で正式な婚約者ではない――しかし、フレーデガルが心を寄せた相手と思っているイツカへ己の主人を任せようとしている。


(でも、わたしはネッセルローデ様の本当の婚約者ではない)


 本当の婚約者でもなければ、そもそも本当は婚約者候補として選ばれたわけでもない。

 あくまでもイツカがフレーデガルの傍にいても不自然に思われないようにするため、一時的に与えられた偽りの立ち位置だ――けれど、ベデリアは本気でそれを信じてくれている。


 苦々しい罪悪感とともに、わずかな痛みがイツカの胸を刺す。

 それを飲み込み、イツカは柔らかく目を細めて微笑み、ベデリアへ顔をあげるよう促すために彼女の肩へ優しく触れた。


「顔をあげてください、ベデリアさん」


 イツカの声に従い、ベデリアがゆっくりと顔をあげる。


「わたしも、まだ頼りないところは多々あります。……しかし、頑張ってネッセルローデ様をお支えすると決めていますから。ですから、どうかご安心ください」


 フレーデガルを支える――イツカが決めていることの一つではあるが、婚約者候補としてではなく仕事としてだ。依頼者が呪詛の影響に負けてしまわないようにと。

 発した言葉は同じでも、そこに含まれている意味は違う。

 結果的にベデリアを騙すような状態になってしまい、イツカの胸に再び罪悪感によるわずかな痛みが走った。


「……旦那様が惹かれた方がクラマーズ様でよかった」


 小さく呟かれたベデリアの声は、心底安心したものだった。

 真っ直ぐにイツカとフレーデガルが周囲についている嘘を信じられると、感じる罪悪感はますます大きなものになっていく。

 しかし、だからといって婚約者候補という嘘を真実に変えるほど、イツカの心はまだ決まっていない。


(……ベデリアさんに嘘をつき続けるのは申し訳ないけど……でも、まだ出会ったばかりだもの)


 出会ったばかりで強く惹かれ合うパターンもあるのかもしれないが、残念ながらイツカとフレーデガルの出会いは強い運命を感じるほどロマンチックなものではない。

 彼を支えたい思いはあれど、それはフレーデガルへの恋慕ではなく、依頼者を守る保護欲に近いものだ。

 なんともいえない複雑な感情を噛み殺し、飲み込み、イツカは浅く息を吐き出した。

 ベデリアがわずかにはっとしたような顔をみせたあと、言葉を続ける。


「長々とお話してしまい申し訳ありませんでした。長旅でお疲れだと思いますので、どうかごゆっくりおくつろぎください。のちに何かお飲み物をお持ちしますが、ご希望はございますでしょうか」

「あ、ええと……それなら紅茶でお願いします。銘柄はこちらで多く飲まれているものだと嬉しいです」


 イツカもはっと我に返り、慌てて返事をした。

 ベデリアは小さく頷いたのち、テーブルの上に置かれたベルを手で示す。


「かしこまりました。他に何かございましたら、そちらにあるベルでいつでもお呼びください」


 彼女の声と手に従い、イツカも示された先にあるベルへ目を向けた。

 テーブルの端には、確かに小さめのハンドベルが置かれている。少々くすんだ金色をしたベルで、持ち手の部分は握りやすそうな作りになっている。試しに軽く揺らしてみれば、澄んだ音色が部屋の空気を震わせた。


 同時に、わずかな魔力が広がっていくのも感じ取ることができ、イツカは納得したように頷いた。

 どうやらこのハンドベル、見た目はただのベルだが一種の魔法道具らしい。ベデリアの言葉から考えるに、遠くにいる人物にも音が届くようになっているのだろう。


(確かに、これなら使用人の方々を簡単に呼べそう)


 心の中で呟いてからハンドベルを元の位置に戻し、イツカは再度笑みを浮かべた。


「わかりました。何から何まで本当にありがとうございます、ベデリアさん」

「いえ。お荷物はこちらへ置いておきますので……それでは失礼いたします」


 ベデリアが、ずっと持ってくれていたイツカの荷物をベッドの上へ置く。そして、最後に深々と頭を下げてから廊下へ出て、扉を閉めた。

 廊下と室内が扉によって隔てられ、しんとした静寂が客室の中を満たす。

 閉ざされた扉の向こう側からはかすかにベデリアの足音が聞こえていたが、それもどんどん小さくなっていき――やがて扉の向こう側も完全に静まり返った。

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