1-5 噛みつき姫と出会いの夜
『ほォ?』
低く落ち着いた、イツカにしか聞こえない男性の声。
ほんの少しだけ顔を動かして隣を見れば、予想通り、イリガミ様の姿がそこにあった。
ぎらぎらと飢えた獣の目をして、最高の馳走を目の前にした獣の目をして、まっすぐにフレーデガルを見つめている。
『いいな。あァ、本当にいい。夜会で見かけたときも思ったが、美味そうだなァ?』
ぼたぼたとよだれを流しそうなほどに、イリガミ様は飢えを感じている。
彼が飢えている。ぎらついた目をしている。それが意味することは一つしかない。
(ネッセルローデ様は――何者かに呪われている)
一人頷き、イツカは隣にいるイリガミ様からフレーデガルへと視線を移した。
「現在は、不可思議な力を持っていると幼い頃から噂になっている女性に相談し、彼女から受け取ったお守りのおかげで緩和されています。しかし、私自身や周囲の人間が突然怪我をしやすくなった状態が改善されたわけではありません。……使用人たちから私へと怪我をする範囲が広がったのなら、今度は領民にも同様の現象が起きるかもしれない」
「だから、そうなる前に解決したいと思っている。そういうことですか?」
イツカが一言そう問いかければ、フレーデガルは静かに頷いた。
今はまだフレーデガルの身の回りと彼本人のみで収まっているが、使用人からフレーデガルへ範囲が広がったように、フレーデガルからさらに他の人へ広がっていく可能性は十分にある。
フレーデガルだけでなくネッセルローデ領全体にこの現象が広がればどのような状態になるか、想像するだけでも恐ろしい。
深い溜息をつき、フレーデガルは眉間にシワを寄せて言葉を続ける。
「……取り返しがつかないことが起きてからでは遅い。私も、使用人たちも、領民たちも」
彼の言うことには頷けるものがある。
現時点でフレーデガルから得られた情報だけでも、この不気味な現象は広がっていくことが簡単に予想できた。
少人数から大人数へ。まるで、病の感染が広がっていくかのように。
そして、そういった現象を起こせるものをイツカはよく知っていた。
無言で傍にいるイリガミ様へ視線を向ける。
フレーデガルと、彼の周囲を襲っている不可思議な現象は――不可視の存在が引き起こすもの。
人の負の感情から生まれた呪詛や穢れが引き起こす、魔法よりも危険で、邪悪で、表の世界から隠され続けている邪法。
すなわち、呪い。それも、時間をかけて少しずつ強められたとびきりの呪いだ。
知り合いの女性からもらったお守りで緩和されているとのことだが、その守りもいつまで続くかわからない。
呪いの力が守りの力を上回れば無効化され、より強い災いがフレーデガルとネッセルローデ領に襲いかかることだろう。
もしそうなってしまえば、ネッセルローデ領は甚大な被害を受けることになる。
「お守りをくださった方へご相談は?」
「これまでに何度かしているが、あの人も根本的な解決法はわからないようでした。今は私のために調べてくれていますが……全てあの人に任せっきりにしてしまうのは、負担が大きい」
「それで、わたしの噂を耳にし、ここへ来たと」
言葉を紡ぎながら、イツカは考える。
何故フレーデガルがこんなに強い呪いをかけられているのか、理由はわからない。
今のところの印象では強く呪われるほどの悪人には思えないが、イツカが見抜いていないだけで裏の顔があるのかもしれない。
だが、本人に非はないが第三者からの一方的かつ身勝手な恨みで呪われるパターンがあることもイツカはよく知っている。
なんせクラマーズ家は古い魔法や呪術を得意とする家。表世界からは隠された邪法に悩まされ、イツカたちクラマーズ家を頼ってきた者を何度も目にしてきたからだ。
「手を借りることができるのであれば、あらゆる方の手をお借りしたい。早急に解決するためにも。……クラマーズ嬢、あなた様が不可思議な現象についてお詳しいのであれば、どうか私に力を貸していただけませんか」
限られた一部の人間にしか相談できず、相談したところで信じてもらえるかわからない。
悩んでいる間にも、何者かがフレーデガルへ送り込んだ呪詛や穢れは彼の身にまとわりつき、少しずつ、けれど確実に彼に牙をむき続ける。
目に見えない何かに追い詰められ続けていた中、イツカに触れられた瞬間、肩が軽くなった感覚を覚えたときは救われた気持ちになったことだろう。
――もし、そうだとしたら。イツカが出す答えは一つ。
ほとんどの人間の目で捉えることができない、超常の存在から人々を守るのがクラマーズ家に生まれた者の役目だ。
「貴重なお話を感謝いたします、ネッセルローデ様」
フレーデガルの目を真っ直ぐに見つめ、イツカは目を細めて唇を持ち上げた。
彼の目は出会った直後の頃とは異なり、強い不安で揺れていた。
クラマーズの下へやってくる領民たちが見せていたものと同じ目。己が今置かれている現状に対する不安と、助けてほしいという願いと、助けてくれるだろうかという心配が入り混じった目。
その目を正面から見つめ、イツカは口を開いた。
「嘘偽りなく申し上げますと、わたしはネッセルローデ様が口にされた現象に心当たりがあります」
フレーデガルの目が大きく見開かれ、水面のように揺れる。
この目にも覚えがある。救われたいと願い続けていた人間が、己にとっての救いを見つけた瞬間に見せる目だ。
小さな声で一言断ってから、イツカはフレーデガルの片手に触れて両手で包み込む。
瞬間。フレーデガルの身体にまとわりつき、彼の手までも飲み込もうとしていた黒い靄が怯えるかのようにざっと引いた。
(……これだけで怯えるということは、呪詛の質はそんなに良くない。術者は力がある人っていうわけではなさそう)
思考を巡らせながら、フレーデガルの様子を観察する。
フレーデガルも再び肩が軽くなったと感じたのか、ほうっと息を吐いて表情をわずかに緩めた。
この表情を、さらに安心したものにしたい。
胸の中にそんな思いが生まれ、イツカは迷わずに口を開いた。
「ネッセルローデ様。わたしに、あなた様の身の回りで起きている不可解な現象についての調査をお任せいただけませんか」
は、と。フレーデガルが大きく目を見開いた。
驚愕を隠しもしない彼の目を見つめ、イツカは穏やかに笑う。
武器を持ったことがない己とは異なる、何度も武器を持ったのだとわかる武人の手。男性らしさを感じるその手を優しく握り、言葉を続けた。
「あなた様はお話をお聞かせしてくれる前にこうおっしゃいましたね。人にはない特別な何かができるのであれば、と」
「……はい」
小さな声で返事をしたフレーデガルから視線をそらさず、さらに言葉を重ねる。
「わたしたちクラマーズ家の人間は、代々不可視の存在に対する対抗策を受け継いでいます。皆が皆、不可視の存在へ対抗するための力や手段を持っていますが――両親曰く、わたしは特に色濃くその力を受け継いでいる」
イツカが生まれる前は、母がもっとも強い力を持っていたのだと、過去に父から聞いたことがある。
しかし、イツカが生まれ、イリガミ様が次の憑依対象にイツカを選んだあとはそのパワーバランスが変化した。今ではイツカがクラマーズ家の中でもっとも強い力を持っている者だ。
これがはじめての依頼だったら躊躇したかもしれないが、何度か領民を呪詛や穢れから守った実績も経験もある。
助けてくれと己を頼ってきてくれた人の手を振り払うことなんて、よほどの理由がない限りイツカにはできない。
「故に、わたしたちクラマーズ家はネッセルローデ様がお話してくれたような不可解な現象についての知識があります。……どうか、わたしにもあなた様を取り巻く問題の解決をお手伝いさせてくれませんか」
丸く見開かれていたフレーデガルの目が揺れたのち、ぐっと細められる。
安堵感から泣きそうになるのを堪え、フレーデガルは握られている手に力を込め、イツカの手を握り返した。
直接口に出さなくても感じ取れる。これが彼の返事である、と。
「……最初に話を持ちかけたのは私です。あの場所でクラマーズ嬢と出会い、あなたに頼ると決めたのは私です」
一度言葉を切り、フレーデガルが軽く深呼吸をする。
わずかな間をおいたあと、フレーデガルの唇にのせられた言葉はイツカが予想していた言葉と同じだった。
「報酬はきちんと支払います。――どうか、あなたのお力をお貸しください。クラマーズ嬢」
凛とした声がイツカの鼓膜を震わせる。
青空を思わせる青い瞳を柔らかく細め、イツカは見る者へ強い安堵感を与える穏やかな笑みをみせて頷いた。
「喜んで。この力、あなた様にお貸しします。ネッセルローデ様」
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