1-4 噛みつき姫と出会いの夜
「確かにあのときは驚きましたが……おかげで、あなたのことを知ることができましたので。顔をあげてください」
「……えっ?」
数拍ほどの空白。
てっきり、イツカは謝罪を求める声がかけられるのだと思っていた。イツカの行動は、おかしな噂がたってしまう可能性だって考えられる行動だったはずだ。
それに、イツカの家は伯爵家。対するフレーデガルは侯爵家。彼のほうが爵位が高く、イツカは目上の人間にあのような行動をしたことになる。
全てが全てフレーデガルの気分を害し、責められても仕方ない行動だったはずなのだが――まさか、気分を害していないのか。
混乱する思いのまま、イツカはおそるおそる顔をあげ、フレーデガルを見る。
こちらを見つめるフレーデガルの表情は先ほどと何も変化がなく、赤い目の中にも怒りや不満、不愉快などの負の感情は見当たらなかった。
(それに、ネッセルローデ様にまとわりついている呪詛にも穢れにも変化はない……)
ちらり、とイツカはフレーデガルの肩にへばりつき続けている黒い靄を見る。
呪詛や穢れと呼ばれるそれらの存在は、人間の負の感情に反応する。怒り、悲しみ、不満など――表向きにはあまりよくないとされている感情を吸収し、力を強めるためだ。
そのため、宿主となっている人間がこれらの感情を抱くと決まって活性化するのだが、フレーデガルが連れているそれらは大人しくしているままだ。
(嘘じゃなくて、本当にネッセルローデ様は気分を害されていない……?)
では、一体何のためにクラマーズ邸まで来たのだろうか。
イツカの内心を見透かしたかのように、フレーデガルが言葉を重ねる。
「あの夜、あなたが会場を離れたあと、他の者からあなたの話を耳にしました」
ぴくり。わずかにイツカの指先が反応する。
「領地からほとんど出てこない、神秘の国に生まれた者の血を引く伯爵令嬢。触れられると何かに噛みつかれたかのような感覚を与えてくることがある変わり者。『噛みつき姫』イツカ・クラマーズだと」
イツカの唇が横に引き結ばれる。
なるほど、会場を離れている最中にもちらりと聞こえたが、あの場にはイツカについて知っている誰かがいたらしい。
誰が最初に与えたのかわからない。だが、気がついた頃にはもう、そのように呼ばれるようになっていた名前。
噛みつき姫。
その名でイツカを呼ぶ者の多くは、こちらのことを気味悪がっていることが多いのも、よく知っている。
(まあ、気味悪がられても仕方ないんだけど)
なんせ、イツカが目にしているのは多くの人間には見えないものだ。
ほとんどの人間が目に見ることができず、存在していないと認識しているものを見ているというのは、それだけで気味悪がられてしまう。
(でも、その話を耳にしているならますますわからない)
何故、多くの人と異なる点があるイツカを尋ねてきたのか。
イツカを不気味に思う人間からの情報を耳にしていて、それでもなおイツカと接触してきたのはどうしてなのか。
多くの人間なら、普通と違う点を持つイツカを不気味がり、接触を避けようとするだろう。
だからこそ、フレーデガルの行動がわからない。
「神秘の国、シャヨウ国の血を引く者の中には人には見えない世界を見る者もいる。それだけでなく、人にはできない特別なことをできる者もいると私は過去に聞いた覚えがあります。クラマーズ嬢もそうであるかはわかりませんが」
一呼吸置き、フレーデガルはイツカをまっすぐ見つめる。
「あなたに触れられたとき、私はずっと重たかった身体がほんのわずかに軽くなったかのように感じました。もし、あなたが人にはない特別な何かができる方なら、お話したいことがあります」
イツカは目を丸くし、はたはたと瞬きをした。
フレーデガルが考えたとおり、イツカには他の人にはない特別な目と力がある。
憑きもの筋である母の血を受け継いだからこそ、そしてイリガミ様という憑きものを母から引き受けたからこそ使えるようになった力。
あの一瞬のうち、それがフレーデガルに対してわずかに発揮されていたのなら――そして、その力を目当てにしてやってきたのならイツカのところへやってきた理由もわかる。
「……お話したいこととは?」
はつり。イツカが呟くように言葉を発し、フレーデガルへ問いかける。
フレーデガルは自身の心を落ち着けようとするかのように紅茶を口に運んだのち、静かに唇を開いた。
「あなたの意見を聞きたいのです。私の身の回りで起きていることについて」
一言そう前置きをし、フレーデガルは語り始めた。己の身の周りで、今何が起きているか。
「数ヶ月ほど前からのことなのですが……最初は、屋敷にいる使用人が怪我をしやすくなる程度のことでした。怪我をしやすくなった使用人の人数は少なく、その中には新しく屋敷にやってきたばかりの者もいました。そのときは、私も使用人たちの不注意や疲労が原因だと考えていました」
故に、使用人たちにしっかりとした休みを与えたり、仕事をする際は十分注意するように呼びかけたりして対処しようとしていた。
だが、予想していたような効果は得られず、怪我をする使用人は後をたたない。
だんだん怪我をする使用人の人数も増えてきて、誰もが首を傾げる中、事態はどんどん悪化していく。
「しかし、使用人たちが怪我をしやすくなってから数週間後。怪我をする対象がついに使用人だけでなく私にまで広がりました」
夜会や茶会の招待状を整理していたとき、指先を招待状の端で切ったのが始まり。
まるで見えない何かに突然招待状を引っ張られたかのように指先を切り、そこからフレーデガル自身もたびたび小さな怪我をするようになった。
どれも小さな怪我といえる範囲だが、急に負傷しやすくなったという点に不気味な何かを感じずにはいられなかった。
「日常生活の中はもちろん、領地近くに魔獣が出た際に討伐へ出かけるときも。どれだけ注意しているつもりでも、細々とした傷をどうしても負ってしまう。……こうなってくると、いよいよ何かがおかしいのではと感じるようになりまして」
そこで一度言葉を切り、フレーデガルはため息をつきながら紅茶を口に運ぶ。
彼の言葉に静かに耳を傾けながら、イツカは一人納得していた。
(だから、ネッセルローデ様はこんなにも濃い呪詛や穢れをまとっているんだ)
周囲の人が怪我をしやすくなったことから始まり、フレーデガル自身も細々とした傷を負うようになった。
ぱっと聞いただけでは、使用人たちやフレーデガル本人の不注意が原因で怪我をしたように思える。だが、最初は少人数だったはずなのにだんだん人数が増え、最終的にフレーデガル本人もそうなったという点は非常に不気味だ。
周囲から見ればただの不注意だと切り捨てられやすく、けれど本人たちからすれば理解ができず不気味に感じてしまいそうな現象。イツカは、この現象のことをよく知っている。
(多分――ネッセルローデ様は)
イツカが頭の中で結論を出しかけたとき、すっかり聞き慣れた声がした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます