1-3 噛みつき姫と出会いの夜
しんと静まり返った客室で、ティーカップへお茶を注ぐ優しい音が響き渡る。
多くの貴族たちから悪い意味の注目を集めただろう夜が明け、クラマーズ領に戻って迎えた翌日。クラマーズ邸の客室に設置されたソファーに腰かけ、イツカは緊張で身を固くしていた。
コウカがさまざまな国を旅して集めてきた調度品や、父が選んだ工芸品などが飾られた客室は、イツカも何度か足を運んだことがある部屋だ。
しかし、普段と異なり、今日の客室にはなんともいえない緊張感に似た空気が満ちている。
それもこれも、今イツカと向かい合うようにして座っている人物が原因だ。
わずかに視線を動かし、イツカは己の眼前に座る青年を見やる。
緩く一つにまとめた肩甲骨の辺りまでありそうな銀髪。冷たそうな印象のある切れ長の赤い瞳。貴族らしい豪奢な印象のある服装は夜会で出会ったときと同じだが、昨夜と異なり、今は左肩にペリースを身に着けている。それもあり、ただの貴族というよりはまるで騎士のようだった。
だが、彼の身体が見えなくなりそうなほどに黒い靄を背負っているのは変わらない。
イツカにとって見覚えがありすぎる人――昨夜の夜会で出会ったばかりの青年の姿が、そこにはあった。
(……なんでこうなったの!?)
イツカの頭の中で、同じ言葉がひたすらぐるぐると巡る。
イリガミ様に知恵と助けを求めたくても、当のイリガミ様は青年が来てから姿を消している。
夜会のときもそうだったが、基本的に彼はイツカ以外の見知らぬ人間がいる場では姿を隠している。知恵を貸してくれる気配も、助けの手を差し伸べてくれる気配もない。
もっとも、イリガミ様の姿はクラマーズ家以外の人間には基本的に見えない。仮に知恵や助けの手を差し伸べてくれたとしても、イツカに関する不気味な噂が増えるだけなのだが。
「お待たせしました。どうぞ」
「ああ、申し訳ない。突然押しかけたというのに」
お茶の準備をしていたメイドが、そっと青年とイツカの前にティーカップを置いた。
ふわりと鼻をくすぐる香りは、イツカが特別気に入っている茶葉の香りだ。
少しでもイツカがリラックスできるように気を利かせてくれたのだろう――ちらりとメイドへ視線を向ければ、わずかに苦笑を浮かべた彼女と目があった。
(あとでお礼を言わなきゃ)
心の中で呟きながら、イツカがティーカップを持ち上げ、中身に口をつける。
目の前の青年も同じタイミングでティーカップに手を伸ばし、真っ白いカップの中で揺れる赤茶色の海へ口をつけた。
適切な温度で淹れられた紅茶の芳醇な香り。強すぎず飲みやすいと感じる程度の渋み。そして、最大限に引き出された茶葉の旨味。
誰もが美味しいと感じるその味をゆっくり楽しんだのち、イツカはほうっと小さく息を吐いた。
青年のほうもきっと同じことを感じたのだろう。言葉はなく、表情にもあまり出なかったが、彼がまとう雰囲気がほんのわずかに和らいだ。
先ほどまでよりも和らいだ空気の中、ティーカップをソーサーの上に戻し、青年が口を開く。
「……さて。繰り返すようになってしまいますが、突然の来訪をお許しください。クラマーズ嬢」
「あ、い、いえ……」
イツカも急いでティーカップをソーサーに戻し、緩く首を左右に振った。
座った姿勢のまま頭を下げ、謝罪の言葉を口にしたあと、青年は顔をあげて言葉を続ける。
「昨夜も顔を合わせましたが……改めて、お初にお目にかかります。私はネッセルローデ侯爵家が嫡男、フレーデガル・ネッセルローデと申します」
ネッセルローデ侯爵家。相手の唇から紡がれた家名を耳にし、イツカはわずかに目を見開いた。
普段、領地に引きこもりがちなイツカでも聞いたことがある。
ネッセルローデ家。ここ、フェストネア王国でも有名な名家の一つで、魔法と剣術を組み合わせた特殊な剣術を代々伝えてきた家だ。
一昔前に比べると平和になったとはいえ、フェストネア王国には魔獣が多く生息していた歴史がある。今でも危険な魔獣が現れることがあるため、ネッセルローデ家は頼りにされている。
思えば、夜会のときも他の貴族がちらほらとネッセルローデ様と口にしていた。あのとき、周囲からの視線を妙に集めてしまったのも納得ができた。
つまり、イツカはそんな有名人相手に不審者としか思えない声のかけ方をしてしまったというわけだ。
(わたし、本当にとんでもないことをしちゃったんじゃないの、これ)
そんな不安と焦りを心の内に抱えながら、イツカは名乗り返すために口を開く。
「……ご丁寧に感謝いたします、ネッセルローデ様。わたしはクラマーズ伯爵家第二子、イツカ・クラマーズと申します」
名乗った直後――ば、と。慌てて深く頭を下げた。
「その……昨夜は本当に申し訳ありませんでした! ネッセルローデ様にあのような振る舞いを……!」
頭を下げた勢いのまま、イツカは謝罪の言葉を口にした。
おかしな声のかけ方をして周囲の視線を集め、注目の的のような状態にしてしまった。
初対面にも関わらず一方的に声をかけたうえ、一方的に逃げ出した――考えれば考えるほど、イツカの行動はフレーデガルに迷惑をかけ、不快な思いをさせてしまうようなものだ。
きっと今回の来訪も、今回のことについて謝罪を求めに来たのだろう。
そう判断したのだが、フレーデガルの反応はイツカが予想していたものとは大きく異なった。
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