第二話 侯爵の契約婚約者
2-1 侯爵の契約婚約者
呪詛や穢れ、それらによって引き起こされる現象について調査する際、イツカは本人だけでなく本人の周囲にも注目する。
というのも、呪詛や穢れは人の負の感情に反応するため、周囲に拡散することがある。術者の力が強大であれば本人のみに固定できるが、それほど力のない術者であれば呪詛や穢れを一人の人間のみに飛ばし続けるのは困難だ。
周囲にも被害が拡散してしまっている場合、本人にまとわりついている呪詛や穢れのみを祓ってもあまり意味がない。周囲にも拡散しているものも含め、全て取り除く必要がある。
「なので、できるだけネッセルローデ様のお近くで調査をしたいと考えています」
「……なるほど」
先ほどよりもわずかに和らいだ空気の中、フレーデガルが顎に手を当てて小さく声を発した。
イツカが正式にフレーデガルに手を貸すと決め、フレーデガルも少し安心したのだろう。彼がまとう雰囲気もわずかに和らぎ、彼の身体にまとわりついている呪詛や穢れの様子も大人しい。
呪詛や穢れは宿主が負の感情を抱けばより活発になるが、反対にポジティブな感情を抱けば勢いをなくすため、これは良い傾向だ。
うんうんと内心頷き、表面上は落ち着いた令嬢として振る舞いながらイツカは口を開く。
「ネッセルローデ様のみをお救いしても、周囲に拡散した呪詛や穢れがそのままになっていると再度取り憑かれるおそれがあります。それに、ネッセルローデ様が無事に過ごすことができるようになっても周囲の方々がそうではないとネッセルローデ様も心から安心できないかと思いまして」
「……ええ。私自身が無事でも、周囲がそうでないと落ち着かないものがありますね」
フレーデガルの言葉や様子からなんとなく予想ができていたが、やはりそうらしい。
であれば、助けなくては。フレーデガルだけでなく彼の周辺にいる人間も含めて。
依頼人だけでなく、依頼人が大事に思っている人たちも守るのがイツカの目標だ。
「ならば、私のほうでクラマーズ嬢が私の傍に長くいても違和感のない状態へ整えておきましょう。数日ほど時間が欲しいのですが、よろしいでしょうか」
フレーデガルの言葉にきょとんとした顔になったあと、イツカは再びゆるりと笑みを浮かべる。
「もちろんです。わたしも少々準備が必要なので、ネッセルローデ様の準備が整い次第、お声をかけてくださいませ」
「……本当に感謝します。では、また連絡をさせてもらいますので」
フレーデガルからの依頼を引き受けた日、そんなやり取りをして別れたことをイツカははっきり覚えている。
イツカが調査をしやすくなるように整えてくれると言っていたのはとてもありがたい。ありがたいのだが。
「おかえりなさいませ、旦那様!」
「まあ! そちらが旦那様のおっしゃっていた婚約者候補のお方ですね?」
――まさか婚約者候補ということにするなんて、誰が予想できただろうか!
クラマーズ領から遠く離れたネッセルローデ領。フレーデガルが領主として君臨するその場所で、イツカはわずかに引きつった笑みを浮かべた。
円滑に調査を進めるため、フレーデガルの傍にいたいと最初に言い出したのはイツカだ。
それに対し、イツカがフレーデガルの傍にいても違和感がないように整えると言ったのはフレーデガルだ。
しかし、だからといってイツカに婚約者候補という立場を一時的に与えるなんて全く予想していなかった。
フレーデガルがはじめてクラマーズ領に来てから数日が経過し、今日。
彼からの連絡を受け、クラマーズ領まで再度来てくれたフレーデガルを迎えたのが数分前。
そして、彼に手を引かれてネッセルローデ領に調査のためにやっていたのが、ついさっきの出来事だ。
ともに馬車へ乗り、クラマーズ領とは異なる景色を眺めながら彼の屋敷まで来たのはいいのだが――玄関ホールでこんな出迎えを受けるだなんて、全く考えていなかった。
思わず隣にいるフレーデガルへちらりと視線を向ける。だが、フレーデガルは穏やかな微笑みと視線をイツカへ返すだけだった。
傍から見れば不安げに領主へ視線を向ける婚約者候補と、婚約者候補を安心させるために穏やかな笑みを向けた領主に見えたのだろう。二人の様子を見ていた使用人――特にメイドたちが微笑ましそうに表情を緩めた。
イツカとフレーデガルを出迎えた使用人たちのうち、しゃんと背筋を伸ばしたメイドがイツカへ近寄り、両手を差し出した。
「お荷物をお預かりします。こちらへ」
「あ……は、はい。ありがとうございます」
小さく頷き、戸惑いながらもイツカは手に持っていた荷物を差し出した。
大切そうにイツカの荷物を受け取ったあと、そのメイドはふわりと笑みを浮かべる。
「遠く離れたクラマーズ領からようこそいらっしゃいました。私はここのメイド長を務めさせていただいております、ベデリアと申します。クラマーズ様が安心して滞在していただけるよう、屋敷の使用人一同心を込めておもてなしいたします。どうか、ごゆっくりご滞在くださいませ」
そういって、ベデリアと名乗ったメイド長は深々と頭を下げた。
なるほど。どこか凛とした印象のある人だと思っていたが、メイドたちを取り仕切るメイド長だったらしい。
はっと我に返り、イツカも軽く身だしなみを整えて笑みを見せる。
「こちらこそ、突然の来訪をどうかお許しください。ネッセルローデ様からすでにお伝えされているかもしれませんが……わたしはクラマーズ伯爵家が第二子、イツカ・クラマーズと申します。しばしの間、お世話になります」
どうかよろしくお願いいたします。
最後に一言添え、深々とお辞儀をしてベデリアたち使用人への挨拶をする。
瞬間、イツカを見ていたメイドや執事たちの表情がぱっと明るくなり、玄関ホールを満たす空気が柔らかいものへ変化した。元から歓迎ムードというのもあったが、今はイツカが最初に足を踏み入れたときよりもさらに明るいものになっている。
イツカも浮かべた笑みから自然と力が抜けていき、緊張が少しずつほぐれていく。
あまりにも突然の来訪になったため、迷惑をかけるのではないかと不安もあったが――どうやらその心配はあまりしなくても大丈夫そうだ。
(……なんとかやっていけるかも)
婚約者候補という深い仲にあるという設定で、少し前に出会ったばかりの依頼人の屋敷へ潜り込むことになるのは完全に予想外だったが、この様子ならなんとか上手くやっていけるかもしれない。
イツカがほっと胸を撫で下ろした頃、静かに様子を見ていたフレーデガルがわずかに表情を和らげて口を開いた。
「ベデリア、クラマーズ嬢を部屋まで案内してほしい。私は少し仕事を片付けてくる」
「承知いたしました。お任せくださいませ、旦那様」
ベデリアがフレーデガルへ深々と頭を下げ、フレーデガルも頷き返す。
短い言葉のやり取りだが、そこには確かな信頼感を感じさせるものがあった。ベデリアだけでない、他の使用人たちともフレーデガルはしっかりとした信頼関係を築けているのだろう。
ネッセルローデ領をまだ全て見て回ることはできていないが、きっと領民たちともきちんとした信頼関係を築けている。フレーデガルと使用人たちのやり取りはそう感じさせる力があった。
(……まだ知り合ったばかりだけど、きっと良い人なんだろうな。ネッセルローデ様も、ベデリアさんたちも、領民の方々も)
だからこそ。
だからこそ、優しい彼らを脅かしている何者かがいるのだと思えば、自然と背筋が伸びた。
(調査して、犯人を見つけ出して、この人たちを守らなきゃ)
一人、改めて決意を固める。
その直後、フレーデガルがイツカへ視線を向け、申し訳なさそうな苦笑を浮かべた。
「本来であれば私が案内するべきなのでしょうが……申し訳ありません、クラマーズ嬢。また食事の席か、その後にでもゆっくりお話したいと思っているのですが」
「どうかお気になさらないでくださいませ、ネッセルローデ様」
首を緩く左右に振ったのち、イツカは目を細めて唇の端をゆっくりと持ち上げた。
ここはフレーデガルの領地で、彼はここの領主だ。一時的な滞在者であるイツカに時間を使うよりも、領民のために時間を使うべきだろう。
フレーデガルを少しでも安心させるため、穏やかな笑みを浮かべたままイツカは言葉を続ける。
「ここはネッセルローデ様の領地。あなた様に声を聞いてほしいと願っている方々は大勢いらっしゃるはず。どうか、わたしよりも領民の方々にお時間を使ってくださいませ」
しばしの間、わたしはこちらに滞在させていただきますから。
イツカと言葉を交わす言葉はまだたくさんあるからという思いを込めて言葉を紡ぎ、笑顔のままでわずかに首を傾げた。
ね? と言いたげなイツカをしばらく見つめたのち、フレーデガルが口元を緩ませる。
相変わらず彼の顔には苦笑いが浮かんだままだったが、先ほどよりもどこか柔らかなものに変化しているように見えた。
「……温かいお言葉、感謝します。クラマーズ嬢。では、またあとでゆっくりお話しましょう」
「はい。わたしもネッセルローデ様とお話ができる時間を楽しみにしております」
どうか、お気をつけて。
最後に一言添えて、イツカは深々とフレーデガルへ頭を下げた。
左肩のペリースを揺らし、フレーデガルがイツカに背を向ける。そのまま執事の一人を連れ、この場を立ち去った。
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