第5話 ペロという名の人

「・・・おーい」

誰かの声が聞こえた。低い男性の声だ。

「気が付いたか?大丈夫?」

「う・・・は、はい」

僕は呻きながらゆっくりと身体を起こした。日光がぽかぽかと心地よい。肌に触れる暖かな草の感触。黄緑色の短い草の生えた原っぱが見渡す限り続いている。

え、見渡す限り?

「僕・・・見える?!」

あまりの衝撃にそれ以上言葉が出てこない。三年間真っ暗な中で過ごしていた。もう美しい自然の風景なんか見ることはかなわないと諦めていたのに。

「琉華、目が見えるようになったんだな?!良かった!」

「え?」

目が見える衝撃ですっかり忘れていたがすぐ近くには男性がいた。つやのある黒髪に暗い茶色の優しそうなまなざし。年齢は四十歳くらいだろうか。黒のポロシャツに黒のチノパンと黒ずくめだ。かなり上背があるようで長い脚を投げ出すようにして原っぱに腰かけていた。

「なぜ僕の名前を?あなたは誰?ここはどこですか?」

「何言ってるんだ。私たちは三年もずっと一緒だったじゃないか。それも朝から晩まで」

男性は苦笑を浮かべる。

全く意味がわからない。僕はあの冬の日に目が見えなくなって以来、ほぼ家に引きこもる生活だった。母以外にはほぼ誰にも会っていないし、まして四十代くらいの男性の知り合いはいない。

「・・・まさかペロなの?」

それ以外には考えられなかった。ペロは現在五歳で人間でいうとちょうど四十歳くらいだ。そんな馬鹿なと思いながらも問いかけずにはいられなかった。

「やっと気付いてくれたか。嬉しいよ、こうして会話ができるようになって」

彼ははにかむような笑みを浮かべた。そうすると目尻にしわができとても人懐こそうな顔になる。

ああ、やっぱりペロなんだ。

彼の姿を見たことはないけれど、それは僕が描いていたペロをまさに擬人化したような姿だった。

ということは、これは夢?犬が人間になるなんてあるわけない。

僕は自分が混乱していくのを感じた。僕は雪の中を例の公園に行きそこでブランコに腰かけた。それから・・・

「誰かの声が耳元でしてブランコから落ちたんだ。そして気を失った・・・」

ということは現実の僕は気を失ったままで、ここはやはり夢の世界か。

「夢の中でもいいや。やっと目が見えるしペロとも話せる」

僕はペロに微笑みかけた。

「いや、これは夢じゃない」

ペロはおもむろに首を振る。

「よく見てみろ。こんなに鮮やかな夢があるか?」

「う、まあそうだけど。でも説明がつかないよ。」

僕が倒れたのは冬、雪が降る日だった。それも近所の公園でだ。それが今は春の日のようにぽかぽかと光が差す、まるで見たこともない場所にいる。それに服装もコートにマフラー、手袋と厚着だったはずが今はただの半袖コットンシャツに濃い青のジーンズだ。

「そういえばあの公園でペロ、君突然吠え出したよね。何があったの?」

僕はふと思い出した。あの時急にペロが吠え出してそばからいなくなったのだ。

「変な奴がこちらに近付いてきたんだよ。フードを被った男か女かもわからないやつが。かなり嫌な感じがしたんで警戒の意味で吠えたんだが、全くひるまなかったな」

ペロは悔しそうに振り返った。

「フードを被った男か。そいつがこの状況に何か関係があるんだろうか・・・」

一度に色々なことが起こりすぎて頭の整理が追い付かない。これが夢じゃないとすると目が急に見えるようになり、どこかもわからない場所に飛ばされたことになる。

「とにかく歩いてみないか?こんなきれいな場所なんだ。景色を楽しもう」

ペロは意外に楽観的な性格のようだ。これは彼が人間になっていなかったらわからなかったことだな、と僕は苦笑を浮かべる。

「そうだね、とにかくあちらの方に行ってみようか。花畑みたいなのが見えるし」

四方はどこまでも黄緑の原っぱが続いていたが、彼方に黄色やピンクの花畑のようなものが見える方向があった。

「いいね、花は大好きだ。蝶がいるかもしれない」

ペロは見た目に似合わずうきうきした声を上げる。

彼も犬の例に漏れず、実はいつも蝶を見てはしゃぎたかったのかもしれない。

僕は微笑みながら腰を上げた。

「よし、行こう」

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