六章 1
グラファイド・アストリア侯爵がもたらした報告は、つい先日紛糾したばかりの王宮での貴族会議を再度盛り上げていた。
現在、トラヴァリア王国では国を挙げて牛痘法の利用拡大を目指している。
開発者である公爵家の者が各領地をまわり、説明会を開き、納得のできた場所から実際に牛痘法を民に広めていくことが決定されたのは記憶に新しい。
王家もこの事業に力を注いでおり、特に王妃キャンベリーが精力的に活動しているのを、まともな貴族であれば誰もが承知している。
そんな中で、説明を受けた領主のひとりであるアストリア侯爵から、無視したくともできない報告書が届いたとき、誰もがその内容に目を疑った。
かの侯爵は牛痘法の伝授を受けただけではなく、後遺症に悩まされていた兵士のひとりを救われた。その者は幾度治癒魔法を行使しても一向に状況が改善せず、駄目で元々と公爵家の次女に相談をしたところ、これまた見たことのない技術で兵士を見事に治療したのだと言う。
兵士の不調の原因は、負傷した際の獣の牙が身体の内部に残ってしまった結果、心の臓腑に異常をきたしていた。そのために身体を刃物で切り開き、人の手で摘出したというのは、にわかには信じ難い内容である。
もしそんなことが可能なのであれば、それは神の所業ではないか。
高度な教育を受けた貴族たちでさえ、どれほどの技術なのか理解できない。
「だが、事実だ。俺はかの公爵家の次女が兵士の体からコレを取り出すのをこの目で見ている。治癒魔法を併用しながらの行為だったが、大部分があの娘の力によるものなのは疑いようがない」
懐から取り出した物を皆の前に転がす。からりと音を立てて置かれたそれは、人差し指ほどもある獣の牙だった。
「治癒魔法が悪いと言うつもりはない。だが治癒魔法では現状回復しきれない者がいるのは確かであり、そんな者たちがあの令嬢にかかれば改善する余地がある。これはもはや受け入れるしかないのだ」
周囲の貴族が獣の牙を興味深そうに回し見る。
長さといい太さといい、こんな物が突き刺さって命があったことも、身体の中に残ってしまったときの苦痛も、子供でも想像がつく。
「俺はアストリア侯爵としても、軍に勤める者としても、公爵家次女シャルロット・アインドルフが提唱する医学の進歩により一層力を入れるべきだと提案する。我が侯爵家の家臣である治癒士二名を病院に派遣するのもこのためだ。いかがであろうか、アインドルフ公爵」
指名されたルーカスが柔らかな顔で首肯する。
つつがなく受け入れられたことで、まずはひとつ侯爵の肩の荷が降りた。
「お待ちを。侯爵の部下の派遣については依存ありませんが、医学とやらに焦点を当てすぎるのは少々否定させていただきたいのですが?」
横から異論を唱えたのは、シンネル・コントーレ伯爵である。
神経質そうな目つきを周囲に巡らせながら、意気揚々と自論を語る。
「確かに我々治癒局においても治せないものがあるのは間違いがありません。しかし、今後はどうなるかわからない。治癒魔法が発展すれば、その医学とやらで治せたものが治癒魔法でも解決するようになる可能性は充分にあるではないですか。であれば、得体の知れない未知の技術に投資するよりも、現状で既にある治癒魔法をより研究していけば良い話ではないですか?」
一定数の貴族が納得し頷く。コントーレ伯爵の言論は、決して間違いではなかった。どちらの力に注視するかというだけなのだから。
伯爵が大袈裟な身振り手振りで続ける。
「報告書を見るに、手術とかいうのを行う際にも、治癒魔法や浄化魔法が使われている。医学というのは単独で完結していない技術ではないのですか? 不完全なのは医学とやらも同じではないですか」
憎々しげにルーカスを睨む。
元凶たる男は、それでも冷静さを失わぬままに反論した。
「確かに重点を置くのが必ずしも医学である必要はないのは伯爵の言う通りだろう。けれども私は、今この時点で話をするのであれば、我が家の提唱する医学に研究費を割く」
「何故ですかっ!? よもや貴方の御息女が関わっているからだなどとのたまうつもりではないでしょうなっ!?」
「もちろん違うさ。私は宰相であり、娘を理由に贔屓をしない。医学に金を与えるのは、明確に治癒魔法に勝っている部分があるからだ」
「なんだというのです、それはっ!?」
唾を飛ばし叫ぶコントーレ伯爵に、ルーカスは目を閉じて答えた。
「人の身体の仕組みを、伯爵はどの程度知っている?」
「いきなり何を……!」
「重要なことだ。例えばの話だが、君がアストリア侯爵領で件の兵士の身体から獣の牙を取り除くことはできるか?」
「そんなこと——最初からわかっていれば当然……!」
「そうかい? 侯爵の報告書によれば、牙は心の臓腑に癒着してしまっていたらしい。君の魔法は、兵士の心臓に傷をつけずに牙を除去できるか? その他にも傷つけてはならない臓器がどれなのかわかるか? どこを切るのが兵士の命を助けるのかわかるか? そもそもどうやって身体の中の異物を発見する?」
「それは……」
「わからないだろう? それがわかるなら最初から治癒魔法で治せていたはずだ。そうだろう? それができたのは今のところ医学だけだ。だから兵士は助かり、私は医学を広めようとしている」
伯爵は言葉を返せず絶句する。顎が砕けそうなほど奥歯を噛み締めていた。
「私は父としてではなく公爵家当主として、またトラヴァリア王国宰相として医学が必要なものだと判断している。だからこそ陛下に奏上し、牛痘法を広めているのだ。心配せずとも治癒魔法の研究費を削るつもりはない。医学の研究に新たに予算をつけるだけだ」
有無を言わさぬ物言いでルーカスは伯爵に告げた。
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