五章 3

 マリア・アインドルフは社交の華と呼ばれる貴婦人である。

 夫であるルーカスから見ても、彼女が淑女らしからぬ様子を見せたことなどほとんど記憶にない。それでいて自らへの驕りもなく、家族や民に対しての慈愛に満ちている。彼女を妻に迎えられたことはルーカスの人生で最も幸運なことだと自信を持って言える。

 その最愛の妻を前にして、国王の御前よりも大きな圧力を感じているのは、はたして何故なのだろうか。

「旦那様? 聞いておられますか?」

 マリアは変わらず美しく微笑んでいる。その笑みからはルーカスでも鳥肌が立つほどの気力が満ちていた。

「あ、ああ。聞いているとも。私が君の声を聞かないはずがないよ」

「でしたら、疾く教えてくださいませ。わたくしたちの——シャーリーの求める人材集めの妨害をされているのは、どちらの恥知らずなのかしら?」

 決して声を荒げないが故に、より明確な怒りがひしひしと伝わってくる。ルーカスは冷や汗が止まらなかった。


 マリアが怒り猛っているのは、アインドルフ公爵家で総力を上げている病院の設立に関する問題だった。

 建築計画や機材に関してはカイエンの多大な協力もあり目処がつき始めている。残るは新たな医師の育成に関してだった。

 人が、集まらない。

 困難なことは予想がついていたが、あまりにも募集に対して人が集まらなすぎた。公爵家としても国としても募集をかけているのに、いまだ片手の指よりも応募者は少なかった。

 無論、条件はそれなりに厳しい。ある程度は勉学に取り組んだ経験がないと下地が足りないだろうし、誰もが気軽に応募できるわけではないのはわかる。

 しかし説明会にすら人が集まらないのは、ルーカスにとっても誤算だった。

 仮に医師になれたとすれば、破格の待遇が受けられる。特に治癒魔法の使い手が医師となれるのであれば、そこらの男爵家と同レベルの立場を手に入れられるのだ。だというのに説明すら忌避されるというのは、理解に及ばぬところだった。


 ルーカスは、初めは医学というものへの理解と関心によるものかと考えていた。

 牛痘法の接種でも経験したことだ。であれば真摯に続ければあのときのようにきっかけを掴めるだろうと思っていた。

 だが、何かきな臭さを感じたのは、公爵家当主としての勘が働いたのか。

 募集を続けると同時に家臣に調べさせると、眉を寄せたくなる事実が判明した。

 医師の募集に関して、特定の貴族から妨害を受けていた。

 その筆頭は、治癒局長であるコントーレ伯爵だった。

 伯爵は自らの足元である治癒局にて、募集に興味を持った者に圧力をかけていた。治癒局に居続けられると思うな、などといった脅迫じみたものから賄賂まがいのものまで多岐に渡っていた。

 そして同時に、治癒局に所属していない治癒士にも同様の圧力をかけたようで、医学に興味を持った者でも迂闊に説明会にすら参加できない状況となっていた。


 調べがついて対策を練っていたところに、社交で圧力の噂を聞き及んだ妻が執務室に飛び込んできたのだった。

「大方あの治癒局長を務める伯爵家の妨害だろうことは想像がついておりますわ。けれども社交で聞けたのはあくまで噂だけ。確証もなしには動けませんことよ。旦那様、お調べになられているのでしょう? まさかこの後に及んで知らなかったなどとはおっしゃいませんわね?」

 言い逃れはできそうにない。というかよりひどい状況になるだけだろうと腹を括ると、ルーカスは調査内容を妻に告げた。

 話を聞くうちに、徐々にマリアの顔は笑顔が消えて真剣味を帯びていった。予想以上に本格的な妨害だったのだ。嫌がらせのレベルを遥かに越えて、確実に潰しに来ていた。

「なるほど。わたくしが思っていた以上に苦しい状況ですわね。しかしここまで嫌われる理由があるでしょうか? 旦那様はお心当たりは?」

「さて。彼は治癒局長であり魔法至上主義者だからね。琴線に触れた可能性はある。それが正当なものかは別にしてね」

「わたくしも社交で医学については浸透を試みておりますが、このままでは好転しませんことよ。いかがなさいますの?」

「幸いと言っていいのか、伯爵が圧力をかけたのは基本的に治癒魔法が使える者だけだ。シャーリーの医学は必ずしも魔法は必要じゃない。そもそもあの子自体が治癒魔法は使えないからね。このままもう少し広く民に働きかけていけば志願は必ず出てくるさ」

「場合によっては、領の治癒士にも協力いただくのもいいかもしれませんわね。流石に公爵領の民にまで圧力をかけるのは難しいかと存じますわ」

「そうだね、それも同時に進めていこう。なんにしてもこんな問題であの子を煩わせるのは私たちの本意じゃない。この件は私たちで片付けよう」

 当然とばかりにマリアは頷く。方向性は決まった。後は全力を尽くすだけだ。


 冷気を漂わせていた妻がようやく本来の笑顔を取り戻したことに息を吐くルーカス。そんな彼に、ふと思い出したようにマリアは告げた。

「ああ、旦那様。コントーレ伯爵家には社交界にて報復いたしますが構いませんわね? 我が公爵家を攻撃したこと、そのまま放置するなどあり得ませんもの」

 首を傾げたマリアは、至極当然とばかりだった。

 あまりの迫力にルーカスの手が一瞬止まったが、ゆっくりと静かに妻に向けて首肯した。

 彼女の言う通り、妨害をなかったことにさせるつもりはなかった。

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