五章 2

 公爵家の敷地内、離れの物置小屋でカイエンはあまりの疲労感にソファでうなだれていた。

 シャルロットの医学を広める決意を固めて、その手始めとして天然痘に手を出してから、彼の日常からは休みというものが消え去った。研究に牛痘法接種、公爵との折衝とかつてない多忙を極めている。本業の商売もシャルロット関連の物が大半を占めており、そちらでも気が休まることはほとんどない。

「人が足りねえ」

 せめて現場の患者対応くらいは誰かに任せてしまいたい。でないとおちおち研究もできやしない。

 けれどもシャルロットの医学に携われるような人材が簡単に見つかるはずがなかった。

「父上が希望者を募っているが、今のところ芳しくないようだな」

 言いながらカイエンの前にカップが置かれる。珍しくシャルロットが淹れてくれたそれは、公爵家で出される紅茶ではなく珈琲と呼ばれる新たな輸入品だった。

 彼女は煙管に火をつけると、実に美味そうに煙を吐き出す。

 カイエンは頭を上げて出されたカップを手に取った。

「なんかさぁ、俺、お嬢が煙管好きなのわかった気がするわ。一日中病やらなんやらの話を続けてると、ふと体に悪くても心底ひと息つける手段が欲しくなるわ」

「やらんぞ」

「へいへい、わかってますよ」

 カイエンは熱い珈琲を喉に流し込む。焼けそうな熱がむしろ体に優しく感じた。


 二人は久しぶりに物置小屋でゆっくりと作業にあたっていた。

 病院設立の認可はあれからすぐに降りた。ルーカスがだいぶ頑張ったらしい。それによって、設立の準備に追われるのが二人の大きな仕事になっていた。

 施設の建設計画、備品の作成やリスト化、そしてなにより新しい医師の育成である。

 この三つの内、特に最後のひとつが大きな壁となっていた。

 なにしろこの世界には医師という職がまだ存在しない。職の創造というのは覚悟していた二人にも難しいものだった。

「そもそも募集に人が来ねえんだよなぁ」

 怪しい手段で病を治す、見たことも聞いたこともない職業になりませんか——カイエンであっても、お引き取り願いたいと思う。

 ルーカスも手を尽くしてくれているが、こればかりは待つしかなかった。

 反面、施設計画や備品に関しては順調であり、特にこれらの分野ではカイエンの商才が際立っていた。

 針にナイフ、糸に鋏に薬——どれもシャルロットに文句はない逸品を揃えてくれた。


 彼女は再びぐったりとするカイエンを尻目に、針と糸を手に取る。豊かな胸の前でそれらを駆使し始めた。

「何やってんだ?」

「結紮の訓練だ。この世界には治癒魔法があるから必要ないかもしれないが、できて困るものでもないからな」

「けっさつ?」

「人の体を手術した後、糸で傷を閉じる技術だ」

「へえ……器用なもんだな。俺に細くて丈夫な糸を頼んだのは、このためか」

「ああ。流石に生まれ変わってからは腕が鈍っている。やれることはしておきたい」

 速さと正確さを両立した流れるような作業は熟練の技を思わせる。

 もう少し休んでもいいだろうと、カイエンは何も考えずにシャルロットの手元を眺め続けた。

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