三章 5
更にひと月ほどが経過していた。
休憩時間に窓の外を見ていると、例の男が病院から去っていくのが見えた。
どうやら手術をしたらしいことを、院内の噂で聞き及んでいた。
とても健康そうには見えない状態だったが、男が剣崎に頭を下げていた。
病状からの手術内容的に、ある程度の術後後遺症がある可能性が高い。定期的に通院も必要になるだろう。けれども男は満足そうだった。
あの後、何度も院長や理事長に相談を持ちかけようとした。
しかしその度に思い止まった。
界の持つ疑問はただの推測でしかない。想像だけで同僚を疑うべきではないと理性が訴えかけてきていた。
しかも患者は満足している。界が診ていたときとは違うのだ。界にはできなかったことを剣崎は成し遂げた。その嫉妬が疑いの理由になっていないと、界は断言できなかった。
その日、休憩から戻っても強い無力感が界を苛んでいた。
なんとか通常診察をこなして、最後の患者を診終わったころには、疲労で眩暈すら覚えるほどだった。
だから、必要な業務を終え、帰路に着こうとした界の前に女が現れたとき、一瞬誰なのかわからなかった。
「あんた、阿坂界よね」
見覚えのある顔だった。あの老女の家族だと遅れて気づいた。老女も長く顔を見ておらず、病状を伺おうとしたところを先に女が声を発した。
「一言文句を言ってやろうと思ってね」
「文句……ですか?」
「あんたがいなければ母さんは死ななかったのに」
何を言われたのか理解できなかった。
「死ん……だ……?」
「そうよ。ようやく手術してくれる病院を見つけたっていうのに、体力がないから手術に耐えられなかったのよ。最後は意識も戻らなかったわ」
「手術……したのです、か……?」
それも別の病院で?
理解できない。
だって、伝えたはずだ。手術はリスクが高すぎると。彼女も理解し、手術以外の方法を望んでいたはずだ。なのに、なぜ、
「あたしたちが何度も頼んだから受けてくれたのよ。でも遅かった。もっと早く手術してたら耐えられたかもしれないって言われたわ。あんたがズルズル手術しないで引き伸ばしたせいよ、この人殺し」
思考が追いつかない。
女が鬼の如き表情で言い放つのを、ただ聞いていた。
「やっぱり伝えても眉ひとつ動かさないのね、この冷血女」
そこから先は覚えていない。
女が言いたいだけ言っていなくなった後、真っ白な思考のまま帰宅し、すぐさまトイレで吐いた。
便座に突っ伏しながら、うつろなアタマでかろうじて考える。
優しい医療とは、温かい医療とは何なのだろうか。
界が理想としていたものは間違いだったのだろうか。
己の信じる医療を持って業務に当たってきたが、結果として患者は亡くなり、その家族からも支持を得られていない。それならば多少強引にでも患者を説き伏せた方が良かったのではないか。界が信じる正しさが、患者たちにとっても正しいとは限らないのだから。
その先で利益を取ったとしても、患者や家族が納得しているのなら良いのではないのか。
診ていた患者が亡くなったのは初めてではない。しかしかつてないほどに打ちのめされていた。
『あんたがいなければ母さんは死ななかったのに』
無力感、徒労感、そしてなによりも罪悪感が界の精神を蝕む。
ぼんやりと思う——あの老女は、望む締めくくり方を得られたのだろうか。
問いかけに答えは二度と返ってこない。
翌日、界は辞表を提出した。
驚く上司を尻目に引き継ぎを済ませ、最後の数日で患者に挨拶をしてしまうと早々に病院から立ち去った。
今は歩道橋の真ん中で、土砂降りの雨で傘も差さずに煙草を咥えている。
もはや界の中にあった大切ななにかは、粉々に砕け散っていた。
元に戻る気配は感じられなかった。
ずぶ濡れで思い返すのは、あの老女の最後に聞いた言葉だった。
その後、界は医療とは全く関係のない仕事で食い繋いだ。
点々と仕事を移り変わる内に、体の中に違和感を感じた。
過去の経験と知識から、放っておけば命に関わるものだと、なんとなくわかっていたけれども放置した。
最終的に自宅から動けなくなり、意識がなくなる直前に百十九番をかけた。
病院には、一度も行かなかった。
それが界の望む締めくくり方だった。
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