三章 4

 業務に戻った界は、また患者の診察を行なっていった。

 悩みがあっても日常は続く。

 ときに感謝され、ときに冷たいと言われつつも界は仕事をこなしていく。

 太陽が沈み、日が変わり、そして半年ほど月日が経過していた。好転しない状況にやきもきしているとき、ふとあることに気づいた。

 気づいてしまった。

 それが、崩壊の兆しだった。


 特定の患者の再診をしていない。

 大きな大学病院であるから、それ自体は問題がない。何かの都合や患者の希望で他の医師が診ている可能性は充分ある。けれども、患者のカルテのデータを他の医師に求められた記憶がなかった。

 再診のない患者の中には、あの怒鳴り散らしていた男や重い病の老女が含まれていた。


 記憶違いもあるかもしれない。電子化されたカルテを見るのに必ず界の許可がいるわけでもない。けれども胸騒ぎを感じた界は、確認のために空き時間に同僚の診察室を訪ねた。

 同僚の剣崎は、まだ患者の診察中だった。おそらく休憩前の最後の診察だろう。時間的に長くはならないだろうと、界は付近のスペースにて剣崎の仕事終わりを待つことにした。そこで聞き覚えのある怒鳴り声が聞こえてきた。

「だから手術はしねえって言ってるだろ!」

 どきりとした。

 そんなつもりはなかったが、剣崎と患者——おそらくあの男だろう——が揉めているのが耳に届く。

 患者のプライバシーに関わる場合もあり、避けねばならない事態だ。

 一旦立ち去るべきだ。そう思い、界は踵を返す。しかし、続く剣崎の声が聞こえてしまったとき、思わず立ち止まった。


 剣崎は諭していた。

 叫ぶ患者を落ち着かせると、病状を改めて説明している。薬を飲まないせいでかなり悪化している。もはや治療には手術しかない。もちろん費用はかかるしリスクもあるけれども、このまま進めば命を落としかねない。だから一刻も早く手術をするべきなのだ、僕にやらせてくれ、と。

 それは柔らかな声で、優しそうに聞こえた。患者に親身になっているように聞こえた。

 界は表面上は冷静だったが、内心は嵐が吹き荒れていた。

 あの男は確かに薬を飲まなかった。病状が悪化していてもおかしくない。ただ、自分が半年前に観たときは、まだ軽度と呼べる範囲だったはずだ。悪化したとしても、命に関わる病状にまでなるだろうか? 即座に手術が必要な状態になるだろうか?

 界にはわからない。

 悪化がひどければ手術が必要なのはそうだろう。だが、男の病は現代医療では薬で改善することが多いものだ。よほど悪化しない限りは薬物療法で対応可能なはずだ。なにより重要な臓器を手術するということは、今後の日常生活に変化をもたらす場合があった。


 一般的に、薬による治療よりも手術の方が、かかる費用が高いため病院に入ってくる金額も当然高くなる。


 だが口は出せない。出せるはずがない。

 そもそも患者と話をするのは、診察している医師なのだから。そして決めるのは、患者自身だ。

 あの男は界ではなく剣崎を選んだのだ。

 鼓動を速くする胸をそのまま、今度こそ足早に立ち去った。

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