三章 3

 阿坂界は、端的に言って優秀な人間だった。

 高い運動能力に優れた頭脳を持ち合わせ、学業で遅れを取ったことはほとんどない。細身の長身から発せられる空気に少しの威圧感があるものの、能力的には非の打ち所がない人物だった。

 そんな彼女が医学部入学から医師を志したのは、自らの能力を少しでも社会で活かしたいがためだった。

 界はその優秀さを発揮して、見事狭き門をくぐり抜けて医師となった。内科外科に囚われず様々な医学に通じ、若くして大学病院においても確たる技術を評価されることとなった。

 しかし、現代の病院においての医療とは、単純な医療技術の話だけでは留まらないことがある。

 界がそのことに気づくのは、実際に多くの患者を診療している最中のことだった。


「これまでの経過を見るに、現在の薬では効果があまり表れていません。念のためお聞きしますが、薬の服用はきちんとしていらっしゃいますか」

「飲んでねえよあんなもん! いいからさっさと治せ!」

「治すための薬を飲まずに治るはずはありません。まずはきちんと服用してください。もし今の薬が気に入らないのであれば、似た効果の別の薬に変えることも可能です」

「薬なんていらねえから今すぐ治せっつってんだよ!」

「では手術なさいますか? 費用もリスクも当然上がることになりますが」

「手術なんてするわけねえだろこのヤブが!」

「ではこのまま悪化させますか? それとここは病院ですので、大きな声はお控えください」

 界は努めて冷静に振る舞うが、内心では溜め息をついていた。

 元より表情の出にくい質だが、感情がないわけではない。言葉も理も通じない相手を諭し続けるのは流石に苦痛だった。

 医は仁術とは良く言ったものだが、同時に限度もあるのだ。

 ひとまず薬を飲まないと話にならないと男に告げると、時間を無駄にしないためにも次の患者の対応に入った。


 次に来たのは、界が長く診ている女性患者のひとりだった。

 重い病を抱えているが、年齢的に手術が難しく、ときおり入院なども挟みながら薬物療法による治療を続けている。家族は手術を勧めているようだが、老女自身が今の治療を望んでいる。

 界にとっても理想的な対応ができる患者だった。

「あんたは馬鹿正直だからあたしは信用してるけど、さっきの人みたいなのは相性が悪いねえ」

 どうやら先程の男の怒鳴り声は、診察室の外まで届いていたようだ。

「お恥ずかしいかぎりです」

「あんたは言うことが率直なんだよ。あたしに『年齢的に手術は危険がある』ってそのまま言ってくるくらいだもの」

「まともな医師であれば必ずお伝えすることです。たまたま最初に診たのが私だっただけでしょう」

「あんたはそうでも、あたしにとってはそうじゃなかったってことさ。それが大事さね」

 老女は笑う。年齢を積み重ねた者特有の、深い皺のある笑みだった。

「実際、あたし自身この年齢で手術は疑問があった。充分生きたから死ぬこと自体は仕方ない。けど最後の締めくくり方は自分で選びたいのさ。あんたはその選択肢をくれた」

「…………」

「最初はえらい無愛想でびっくりしたけどね。今じゃその仏頂面を見ないと体調が悪くなりそうだよ」

 界は唇を少しだけ吊り上げると、老女に診察終了を告げる。

 彼女はやはり笑顔で退室していった。


 大学病院、喫煙室。

 界は火をつけた煙草を咥えながら、天井を仰ぎ見る。

 あの後も患者の診察は続いた。

 日々の診察業務の合間の喫煙時間こそ、界にとって一番の休息だった。

 ぷかぷかと煙を吐きながら患者の反応を思い返す。

『厳しいことばかり言われる』

『冷たい』

『もっと優しい先生に診てほしい』

 界を悩ませる患者の言葉だ。


 優しい医療、温かい医療とは何なのだろうか。

 もちろん心も癒せる医療の道を求めなければならないのは間違いない。けれども、必要なことを伝えないのは優しさではない。


 界が心掛けているのは、患者に対する不利益を隠さないということだ。

 それが患者にとって辛い事実だったとしても、隠した時点で医師として失格だと界は思っている。

 しかし、世の中には都合の悪いことを患者に伝えない医師も存在する。耳に優しい言葉を囁き、誘導し、己の利益の生贄にするような輩が。

 それは優しさではない。勘違いしてはならない。

 先の男性患者のように、そもそも話を聞かない者もいなくはない。だが、やはり騙され、病状を悪化させてしまう患者がいるのも事実であり、そういった患者への対応に界は悩まされていた。


 自身の性格が決して当たりの良いものでないことは自覚している。そのせいで不信感を与えてしまい、結果として良くない医療を盲信してしまった患者もいる。

 意識して柔らかく当たろうと試みてはいるものの、成果は出ていなかった。元より人の感情の機微に疎いこともあるだろう。今のところあの老女との関係だけが、界が求める理想の医療だった。


 紫煙をゆっくりと吐き出す。

 解決の見えない問題に、界は初めて出くわしていた。

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