二章 5
カイエンが目当ての薬を持ってくると、シャルロットは母マリアの手首から手を離し立ち上がった。
「とりあえず最初に大事なことを。この薬は絶対に火気に近づけないでください。非常に危険なものです」
小さなロケットがついた鎖を持ちながら、シャルロットは言った。
好奇心に負けたカイエンが問う。
「もし火がついたらどうなんだ?」
「爆発する」
端的に告げるシャルロットにカイエンとヨハンは絶句。そんな危ない代物だったのか。
「無論この少量ではそこまでの危険性はないはずだ。が、用心に越したことはない。取り扱いには重々気をつけてくれ」
頷く面々を見回すとシャルロットも首肯した。
「さて、この薬だがもちろん危険なだけではない。母上が患っている狭心症と呼ばれるものの大半は、心臓付近の血管が何らかの原因によって収縮することで、血流に滞りができることで引き起こされるものだ。この薬は、服用すると血管を広げる作用がある。発作が起こった際に服用すれば、症状を緩和、あるいは改善することができるというものだ」
——ニトログリセリン。
かつてシャルロットの世界ではそう呼ばれていた。
「問題点は三つ。まずひとつは先に言った通り、この薬自体が危険物に該当するということ。そして二つめ、この薬は私が自身の体で極少量を試験しただけで、安全性や作用についてまだ保障ができないこと。最後に三つめ、この薬でも症状によっては改善しない場合があるということだ」
ルーカスは合点がいったのか、目を細めた。
「完全なる治療手段ではない、ということだね?」
「仰るとおりです、父上。もしこれを母上に飲ませるのであれば、それはある種の人体実験に他ならないでしょう」
あまりにも重々しい事実を、シャルロットは何の感情も浮かべずに肯定した。
「もっとも、元来薬とはそういうものです。良い面もあれば悪い面もある。どんな薬にも絶対の安全はありません。もちろんこれをつくるにあたって、私は細心の注意を払っており、服用によって死に至るような副作用の確率は大きくない。ですが悪い面がでてしまったとき、場合によっては症状が更に重くなったりするようなこともあるかもしれません」
——シャル姉様は、なぜこんなに冷静なのだろう?
あまりの平坦な物言いに、ヨハンは自分の姉ではなく、知らない者と話をしているかのような錯覚を覚えた。
もともと長姉と比べて感情の起伏は小さい人だ。だが、薬の話を始めてからのシャルロットは氷のような冷たさを感じてしまう。
横で父ルーカスが明らかに悩んでいるのがわかった。
ヨハンにもわからない。果たして、かけがえのない母にこの氷のような人が作ったという薬を飲ませても良いのだろうか——それによって、母をさらに苦しめることになってしまったとしても。
迷う父と弟を静かに見守るシャルロット。あまりの沈黙に見かねたカイエンが口を開こうとして、
「——いいじゃありませんか、旦那様。わたくしはシャーリーを信じますよ」
少し掠れた、しかし心地の良い柔らかな声が聞こえた。
今の今まで意識がなかった、母マリアが目を覚ましていた。
マリアは長い銀の髪をこぼれさせながら体を起こした。
まだ横になっていた方が良いと言うルーカスやカイエンに首を横に振る。
青褪めた顔色の悪さはそのままだが、青い瞳は力強い光を発していた。
「人体実験がなんだというのですか。副作用とやらに苦しむことになろうと、愛する娘のことすら信じられずに生き長らえることの方がわたくしには苦痛です」
きっぱりと言い切る。
線の細く見える外見に反して、本質はどこまでも気丈——それが公爵家の妻であるマリア・アインドルフという女だった。
「仮に、シャーリーの薬が原因で命を失うのであれば、この子は必ずわたくしを糧に薬を完成させるでしょう。本来ならこのまま床に臥して死を待つだけだというのに、シャーリーはわたくしに命の使い方まで与えてくれる。これほど母親冥利に尽きることもありませんわ」
当然のことのように自らの死すら受け入れているマリアに、むしろルーカスたちが困惑していた。それを横目にシャルロットは母の体が楽になるように手を貸し、その流れで手首で脈を取りながら状況の確認に努めた。
「母上、話はどこまでお聞きになられていましたか?」
「全てよ。わたくしには何も問題はありません」
「仮に……私の作った薬で副作用が出た場合、詳しく調べさせていただくことになりますが、そちらもよろしいでしょうか」
「当然でしょう。存分におやりなさい。わたくしも言葉が発せられるのであれば全面的に協力いたします」
「……万一、亡くなられたときは……」
「薬の副作用が原因でも、病が原因でも、同じように」
シャルロットは母と視線を合わせる。瞳の光は、微塵も揺らぎがなかった。目蓋を閉じ、シャルロットは息を吐く。
「母上、貴女は——医学というものを理解しておられる」
「あら、わたくしが理解しているのは医学じゃなくて、娘である貴女よ」
ついにルーカスは耐えきれなかった。
「マリアッ!? いいのか!?」
泣きそうなほどに顔を歪ませる夫を見て、マリアは柔らかく微笑んだ。
ルーカスは息を呑む——かつて彼がマリアに惹かれる要因となった、強さと優しさが混在した美しい微笑みだった。
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