二章 4

 そこから後の話は早かった。

 予定していた実験を全て中止し、すぐさま屋敷に戻る。念のためカイエンも二人に同行することになった。

 屋敷内は使用人たちが忙しなく動き回っている。母マリアが倒れたことにより、その対処に追われているようだった。声をかけるのが憚られたため、詳しい状況は弟のヨハンに聞くこととなった。

「母上はどこにいる?」

「寝室に運ばれました。既に父様が治癒士を呼んでいます」

「どのくらい時間が経ったかわかるか?」

「倒れてすぐに父様に言われてシャル姉様を呼びに行きました。そこまで時間は経っていないはずです。ブリジット姉様のところには家令が向かったはずです」

 シャルロットは頷くと、母の元へ急いだ。


 母の寝室にたどり着くと、ベッドには母マリアが青褪めた顔色で横たわっており、その横にはルーカスと治癒士が椅子を置いて座っていた。

 センスの良い家具を適度な間隔で配置してあり、落ち着きをもたらすような気遣いを感じさせるものの、それらの主人たるマリアは気遣いもできずに眠ったままだった。

 邪魔になってはいけないと、シャルロットたちは静かにベッドの近くに立つ。真剣な顔つきで話し合うルーカスと治癒士の言葉に耳を傾けた。

「ひとまず今すぐに命に関わる状態は脱しているかと思われます。ですが、胸の病はこれといった原因が掴めません。今回は治癒魔法をかけましたが、はたして効いているのかどうか……」

「治ってはいない、ということだろうか」

 厳しい顔のルーカスに、治癒士は申し訳なさそうになっている。

「急に胸に痛みを感じて倒れる方自体は決して少なくはありません。その都度で治癒魔法にて対処しておりますが、治癒魔法そのものに効果が見られなかったり、あるいは再発してしまう場合もあるようです。我々治癒士も最善は尽くしておりますが、現時点で確実な治癒のお約束は難しいかと」

 治癒士の言を飲み込んだルーカスは固く目を閉じる。

 自分自身が耐え難い痛みに耐えるかのようだった。


 ルーカスとマリアは貴族では珍しい恋愛結婚である。

 高位貴族となれば大半は家の力を高めるための政略結婚であり、貴族子女はそのための存在とも言える。

 だが、過去を遡れば王家とも血縁がある公爵家の当主たるルーカスは今以上の権力は求めておらず、愛する女性と結婚し円満な家庭を築き上げたのは貴族間で有名な話だ。


 そんな愛する妻が、病に倒れても何もすることができない。

 さしものルーカスも顔色を隠せなかった。


 治癒士が退去してからも、しばらくの間ルーカスたちはマリアの横に留まった。

 悲痛さすら漂うルーカスの背を、シャルロットたちは黙って見つめる。

 カイエンはやりきれなさを覚える。ヨハンも母の容体が思わしくないことに動揺しているのがわかる。しかし、ふと隣に立つシャルロットが他の者とは様子が異なることに気づいた。

 躊躇うような、しかし何かを望むような——


「父上」

 幾ばくかの逡巡の後、シャルロットは口を開いた。

「……なんだい、シャーリー?」

「母上の症状、もう一度私にも詳しくお聞かせください」

 問いかけるシャルロットは、何の感情も見えなかった。

 透き通るような表情のシャルロットは、冷たさすら感じさせる抑揚のない口調で続けた。

「お忘れになられましたか。私の医学は治癒魔法とは異なる技術です。症状次第で対応ができるかもしれません」

 ルーカスは振り向いた。

「私はできることをできないとも、できないことをできるとも申しません。どうかお聞かせを」

「……わかった」


 ルーカスはマリアが倒れた経緯について語った。

 マリアが昼を越えたころに胸を押さえて倒れたこと。

 外傷などは特になかったこと。

 初めは意識があったが、徐々に痛みで返事もできなくなっていったこと。

 治癒魔法があまり効果的でなかったこと。

 シャルロットはひと通りの経緯を確認すると、飲み込むかのように頷いた。

「……なるほど。狭心症の類のように感じますね」

「わかるのか……?」

「症状そのものは存じています。治癒士の言っていたように珍しくはない病です。しかし、原因が多岐にわたり特定が難しい症状でもある」

 眠る母の様子を見ながら、シャルロットは告げた。

「治せはしないのか……」

 藁にもすがるかのようなルーカスだが、落胆と共に嘆息した。

 けれどもシャルロットはそこで終わらなかった。

「左様ですね。病そのものの治療は今の私にも難しい。しかし——」

「……しかし?」

「胸の痛みに関しては、対処療法が可能であるかと」

 瞠目するルーカス。黙って聞いていたヨハンも、青い眼をまるくしていた。

「しゃ、シャル姉様!? そんな治癒士にすらできないことを言っては——!」

「ヨハン。先に言ったはずだ。私はできないことをできるとは言わない。問題がないわけではないが。——カイエン、七番を取ってきてくれ」

「七番? たまたま材料が見つかったとかでお嬢が作ったアレか? めちゃくちゃ少ないけどいいのか?」

 急に話題を振られたカイエンが確認する。

 シャルロットは黙ったまま頷いた。

 その眼には親しい者には見つけられるわずかな逡巡が残っているのがカイエンにはわかったが、何も言わずに薬を取ってくることを選んだ。

 指摘したら、シャルロットが泣いてしまいそうな顔に見えたから。

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