知恵なき怪物
1、知恵なき怪物
「さて、どっちへ行こうか」
赤く大きな猿のごとき若者。分かれ道に立っておった。
額のかどに、2本のツノ。人間の2倍よりも背の高い、でかくてごっつい身体。
『力』のルーンを授かって旅に出た、いまだ名のないあの『いちばん大きな兄者』であった。
故郷を離れ、旅に出で、行くあてもなしにここまで、すたすたと道を歩いてきた。
手に持つものは何もなく、まとうヨロイも何もなし。
そこらに生えておるものを食い、眠るときには地面に転がった。
赤い大地の神と暗い霊峰の女神の血を引く若者。粗食野宿は苦にならぬ。
分かれ道にぶつかって、そこで初めて立ち止まり、ちょっと考えておるのであった。
「生まれ故郷から、外に出たこともなかったしのう・・・
どっちへ行くも何も、どこに何があるかすら、知らんのだ」
弟どもと別れ、ひとり歩く若者。もはや『兄者』と呼ばれることもない。『いちばん大きな兄者』などと名乗ったところで、通じやせぬ。
いまやただの、名もない生きもの。
赤く大きな猿のごとき姿をした、でかく、ごっつい、1個の生きものに過ぎなんだ。
道に迷う、1個の生きものである。
「うーむ・・・。
この、ぶら下がっておる板切れは、人が作ったもののように見えるのだが」
木からぶら下がった板を見て、考え込む。
板の表面は平らに削られておる。明らかに人の手になる板である。
その平らな面に、炭と思われる汚れがついておる。
「なんでこんな、汚れた板きれを、木からぶら下げておるのだろう?」
悩んでおると、頭上でかすかな音がした。
ふつうなら葉ずれの音かなと思う程度の、わずかな音。
だが。
「おっと、危ない」
若者は危険を察知し、飛びのいた。
ドスン。
木の上から、巨大な丸太が落ちてきた。
「なんじゃ? 丸太が落ちてきおった」
見るとその丸太、ぐにゃりと曲がってスルスルと、音も立てずに滑走しおる。
三角形をした頭に2本のツノ。ギラギラと光る目をし、背中には翼が生えておる。巨大な身体を不気味にうねらせながら、草を踏む音もほとんど立てず、スルスルと下生えの中を回り込もうとしておる。
その長さ、若者の背丈をも超える。ということは、人間の背丈の倍を遥かに超えるわけである。
「へびか。竜か?」
赤く大きな猿のごとき若者、身構えた。
スルスル滑走する怪物に応じてグルグルと向きを変え、いつでも戦えるよう、腕を構える。
怪物、突如、空を飛んだ!
空を切って、ビターンとばかりにぶつかってくる!
「おっと、危ない」
赤く大きな猿、ふたたび避けた。化け物ビターンと地面に落ちる。
「上から来られても避けれるのだぞ。平らに来られて、当たるわけがなかろう」
若者、相手に言うてやった。
だが怪物、どうやら言葉がわからぬ。即座にスルスルと移動を始め、水に潜るがごとく、草むらの中に潜ってしまう。
かすかに草の鳴る音を立て、さわさわと下生えを揺らしながら、道端の深い草むらを怪物が泳ぐ。まさに、草の海を潜行するがごとし。若者からは、怪物がどこに居るのかさっぱりわからぬ。
「ぬう! あれほどの巨体で、器用に隠れおった。なかなかやるのう」
赤く大きな猿、ぐるぐる見回す。だがどこに居るかさっぱりわからぬ。
ぶおん。空を切る音が、ギリギリのところで敵の突撃を通知した。
「後ろか!」
赤く大きな猿、後ろから飛び迫る敵に対し、後ろにドスンと背中をぶつけた。今回は避ける間なしと見て、避けるのではなく、逆にぶつかりに行ったのであった。
この反撃は半分成功した。
怪物は、胴体の真ん中あたりで赤く大きな猿にぶつかって、頭でガブリと噛みつこうとしておったのである。が、狙ったよりも近いところでぶつかってしもうたため、ガブリとやるタイミングがずれた。それで、噛みつくタイミングが少し遅れた。
だが半分は失敗であった。怪物の尻尾の部分が絡みついてき、ギュウギュウ締めつけられた。
「うぬう。捕まってしもうた」腹を締めつけられ、少し苦しい。「だが、こちらも捕まえたぞ」
赤く大きな猿のごとき若者、ニヤリと笑うた。
怪物に絡みつかれるあいだに、その喉元をがっしと捕まえたのであった。
「どうやら、へびのようだな。
へびならば、首さえ掴んでしまえば、なんてことはないのだ」
わっはっはと、笑う若者。なんてことはないなどと言うておるが、人間なら締め上げられて死んでおるところ。彼が人外に頑丈だから、笑うておれるだけである。
怪物の牙がいまにも石頭に触れんところまで迫っておるというのに、この態度。まったく、不敵な荒くれ者である。
「では、さらばだ」
若者は『力』のルーンでもって、へびを締め上げた。へびはのたうち、凄まじく暴れたが、それもほんの一時のこと。怪物とはいえルーンも持たぬ天然自然の生きもの。『力』のルーンの所有者に敵うはずもなし。
へび死亡。
「よし、こいつはかば焼きにしてやろう」
大胆不敵にも化けへびを退治した若者。
そいつを引き裂き、かば焼きにして食ってしもうた。
「初めに飛びつかれたときは、少し危なかったが。
3度も同じことをすれば、こっちだって学習するわい」
若者は食べ残した死骸を分かれ道に埋めてやりながら、話しかけた。
「知恵もなく同じことをくり返し、敗北するとは、あわれな生きものよ。
眠れ。知恵なき怪物よ。おまえの生命のぶん、私が活躍してやろう」
2、勝手な猿
分かれ道から登り坂を選んだ、赤く大きな猿のごとき若者。
やがて、村にたどり着いた。
ヒューマンの村である。
ヒューマンとは何か。などと、みなさんには説明するまでもありませんね。なぜって、みなさんヒューマンでいらっしゃる。
けれども、このお話はいろんな種族に向けて語り伝えられてきたものでして、『ヒューマンとはなにか』という説明もあるのです。ちょっと読み上げてみましょうか。
『ヒューマンとは、猿の神の子孫。
猿の神から授かった、ものまねのわざを持つ。寿命は短く、すぐに死んでしまうが、よくわかっていない技術でも見よう見まねで何とかしてしまう・・・』
「きー」「きー」「きー」
猿のごとく叫ぶヒューマンどもの中に、赤く大きな猿のごとき若者は分け入った。
村へ入った途端、これである。
「きー」「きいきい」「きいいい」
「そうわめくな。取って食いはせんわい。
さっきでっかいへびを食うたところ。腹も一杯で、戦う気にもならんのだ」
「きー」「きー」「あんた何者?」
「おお、言葉の通じる者も居るのか」
若者は周囲を見回した。が、若者の半分も背丈のないヒューマンの群れはどいつもこいつも大騒ぎをしており、その20人だか30人だかの中の誰がしゃべったのか、ちょっとわからぬ。
「ええい、うるさい。しゃべらん奴は、後ろにさがれ!」
若者が吼えると、その吼え声に吹っ飛ばされるがごとくしてヒューマンどもは散り散りになった。
あとには、若い娘が1人、地面にこけておるのみ。
「うん? 転んだのか?」
「あ、あんたが、急に、怒鳴るから、腰が」
「それはすまぬ」若者は謝った。「ケガはないか?」
「お尻を打った」娘はブツブツ言った。「あんた、何しに来たの」
「何をしに来たわけでもない。旅をしておったら、ここに出てしもうただけのこと」
「看板があっただろ?」娘は言った。「猿の村、こっち、って」
「かんばん?」
「分かれ道んとこに」
「・・・もしかして、あの、木からぶら下がっておった板か? 炭で汚れた」
「汚れたんじゃない。文字だよ。『猿』『村』と矢印が書いてあったろ?」
「もじ? やじるし?」
「字を知らんのか」
「知らん」
「やれやれだ」娘は嘆いた。「あんたも、この村の猿どもと同じか」
「なんだ。自分はちがうような言いようだな」
「ちがうとも」娘は立ち上がった。「私はエルフの都で学んだ。猿じゃないんだ。ルーンも使える」
「なんと。おまえもルーンを使えるのか」
「え?」
「私もひとつ、ルーンを持っておるのだ。『力』というのだが」
「・・・」娘は呼吸を止めてしばらく考え、あっはっはと笑った。「ばーか。『力』は、神竜(じんりゅう)のルーンじゃないか。つくならもっとマシなウソにおし」
「ウソじゃないぞ。旅人のレガーさんにもらったのだ」
「レガー?」娘は首をひねった。「あの『火』の贈り手のレガー?」
「なんだそれは」若者は首をひねった。「私の言うのは、旅人のレガーさんだ。ヒョロヒョロした」
「なんだ、別人か? まぎらわしい名前名乗りやがって」
「おい。そっちのレガーさんがどんな人かは知らんがな。
旅人のレガーさんに失礼であろう」
「・・・うーん、そうか? わかった、ごめん」
「うむ。で、おまえさんはどんなルーンを使えるのだ?」
「そりゃ当然、魔術師に伝わってるルーンだけだよ。
それこそ『レガーの火』とか。『魔弾(まだん)』とかね」
「まじゅつし? まだん?」
「・・・あー、もういい。あんた、都のことも魔術師のことも知らんのだろ? 全然」
「うむ」
「ま、怪物じゃないならいいさ。おとなしく話ができるんなら、私も戦わずに済むからね」
「怪物?」
赤く大きな猿のごとき若者はキョロキョロした。
「あんただよ、あんた」娘は笑った。「怪物じゃなくてよかったよって」
「私が?」
「怪物みたいにでっかいからさ」娘は言ってから、慌てて付け加えた。「でも、話すといい人じゃないか。賢いし、かっこいいよ、うん」
「私が、怪物・・・」
赤く大きな猿のごとき若者、ショック。しばらくは、しゃべることもできなんだ。
彼は、自分がものすごくでっかくごっつい生きものであることを、まだあまり自覚できておらぬ。でっかくてごっつい生きものは、それだけで恐れられるということも、まだあまりわかっておらぬ。
兄弟のあいだでは『いちばん大きな兄者』と親しまれ尊敬もされておったし、旅人のレガーさんも若者や弟たちを恐れる様子がなかった。それで、ついついそれが普通のように思い込んでおったのである。
だが一歩外に出れば『怪物』呼ばわり。ショック。
「大きさがね。大きさだけ。見た目は人間だよ。二枚目。可愛い。逞しい。大丈夫。ね?」
娘は大慌てで若者をなだめにかかった。
「ぬ・・・う・・・」
「私は、この村の魔術師をやっててね。怪物が出たら、私が対処することになってるんだ」
「女が?」若者はようやく立ち直った。「1人で?」
「ああ。だって、村の魔術師だからね。
魔術は、怪物を倒すにはいいんだ。狩人の弓よりも、向いてるんだ」
「ふむ・・・しかし、若い娘に怪物の相手をさせるのか? 万が一、負けたら」
娘は仲間のヒューマンどものほうを気にして、少し声を下げた。「そりゃ、死ぬさ」
きーきー叫ぶばかりであったヒューマンどもは、ギラギラと警戒心に輝く目でこちらを睨んでおる。距離を取ってはいるが、その恐怖と警戒心はひしひしと伝わってきた。
恐れ、警戒し、叫び、罵倒する。だが自分で戦おうとはせぬ。そういう生きものども。
「あんた、私のウチに来るかい?」
「いや、やめておこう。歓迎されておらんようだし、」
赤く大きな猿のごとき若者は、なんとなくいやな気分になって断った。
「それに、若い娘に危険な役を押しつけるような奴らと、一緒に過ごす気にならんのだ」
「あんたは男らしいね」娘は笑った。「村を通り抜けるなら、案内するよ」
「ああ。それはお願いしよう。おまえさんは、気持ちのいい娘だからな」
「へ、へんな言い方すんな」
赤く大きな猿のごとき若者、若いヒューマンの娘に案内されて村を通り抜ける。
ギラギラした目で睨むヒューマンどもとは一言も口を利かなんだ。どいつもこいつも、2人が歩く方向からは逃げ惑い、通り過ぎた後からは睨み付けながらついてくる。村を出るまで、ずっとそんな感じであった。
「気分が悪い奴らだのう!」
「まあまあ。あんたが我慢してくれるおかげで、私は得をしたよ」
「なんと、そうなのか? なんでじゃ?」
「あんたとのこと、こうやって丸く収めてみせたからだよ。
私は頼りになる魔術師だ、ってなるだろ」
「危ない役を押しつけられておるだけではないか」
「まあそうだけどさ。
私のおっ父も、魔術師でね。でも死んじゃってさ。縄張りのけものにやられて」
「なわばりのけもの?」
「どこまでも縄張りを広げようとする、黒いけものだよ」
「それが、人間を殺すのか。強い怪物か」
「怪物の中じゃ、強いほうじゃない。けど、知恵が回るんだ。
狩人の仕掛けた罠は見破られて壊されちゃう。逆に、そいつのほうが落とし穴を掘ったり、崖の上から岩や丸太を落としてきて、人間を殺すんだ。で、食べちゃうのさ。
おっ父も、狭い道に誘い込まれてね。上から岩を落とされて、ぺちゃんこにされちまった。
そうやって強い奴から1人ずつ誘い出して殺す。最後は女子供まで皆殺しさ」
「父上は、1人で戦ったのか?」
「1人で怪物の相手をしなきゃ、村を追い出されんだよ」
「なんでじゃ。ひどすぎるではないか」
「狩人は肉を持ってくる。でも魔術師はふだんは食べるだけだ。
だから、怪物が出たとき、魔術師は逃げちゃダメなんだ」
「そうだからと言って、1人でやらせてどうする。死んだら困るのはみんな同じだろうに」
「・・・まあ、私もそう思うけどさ」
2人は村を通り抜けた。
娘は出口のところで止まる。
赤く大きな猿のごとき若者は村から一歩出たところで、振り向いた。
「追い出されるというなら、村を出てしまえばよいではないか」
「そうは行かない」娘は笑った。「おっ父が守ってきた村だ。私だって、守ってみせる」
「そうか」
「・・・一晩、泊まっていかない? ウチ、私1人で、さ、寂しくてさ」
娘は顔を赤くして言った。
が、男女の付き合いをまったく経験しておらん若者。その意味がわからん。
「いや」あっさり断ってしもうた。「私は、自分の力を試さねばならん。レガーさんにも死んだ弟にも、約束したことだ」
「んな! バ・・・そっか」
「ではな」
娘の誘いも理解せず、すたすたと村を離れる赤く大きな猿のごとき若者。
娘、初めは立ち止まっておったが、慌てて追いかける。
「待て! やっぱもうちょっとついていく」
「なんと?」
「いやなの?」
「私はかまわんが」若者は娘の顔を見て言い直した。「いや、話し相手ができるのはうれしい。だが、そちらはよいのか?」
「いやその、あんたが村をちゃんと離れたかどうか、確認するって名目だ」
名目などと言うておる。若者もここでようやく「ついてきたいだけかな」と気がついた。
「わかった。おまえさんのような立派な女を騙しはせんが、案内してもらえるというなら」
「うん。確認は必要だからね。何事も。うん」
こうして道連れができた、赤く大きな猿のごとき若者。
女ごころはまったく理解しておらんが、仲良くすたすたと歩き始めた。
「しかし、言わせてもらうがな」
「なんだい?」
「あの村の者どもは、どうしようもないやつらだのう!
下手に知恵があるぶん、なお悪い。知恵なき怪物の方がましだったぞ!」
「お猿だからね!」
村を離れたので、女の口も容赦がなくなった。
「我の今を考える知恵しかないのさ。『みんな』『明日』ってものがわからないんだ」
「そうだ。私の言いたいのはそういうことだ」
「知恵なき怪物ってどんなやつ?」
「大きなへびだ。分かれ道のところで出くわした」
「ああ、あいつか。つばさへび。あのへんの森のヌシだよ。
縄張りのけものに餌を取られて、仕方なく道に出てきたってとこかな・・・。
あんた、よく逃げれたね」
「逃げる?」
「あいつ、まあまあ足も速いだろ? 足っていうか、スルスルーって。よく逃げ切れたねって」
「いや、倒したのだが」
「え?」娘はきょとんとして、あっはっはと笑った。「ウソはダメだよ、ウソは」
「ウソはそんなに言わんというのに。
倒して、かば焼きにして食べたぞ。骨は分かれ道に埋めておいた」
「・・・ええ?」
3、縄張りのけもの
さて、すたすた歩く2人。
赤く大きな猿のごとき若者と、村の魔術師の娘。
山道を登り、峠までやってきた。
峠には、小さな広場。狩人や木こりが休憩に使う場所という。丸太を割った椅子が作ってある。
そこで、娘が若者の手を引っ張って、引き留めた。
「・・・ねえ」
「うん?」
娘は手を引っ張るだけで何も言わぬ。
さすがに、若者にも娘の意図がわかってきた。しかし、そうなると今度はどう相手をすればよいかがわからぬ。
「おお。ええと、そうだな。すこし、休憩するか」あたふたした。
「・・・」娘は若者を試すようにじっと見上げておる。
赤く大きな猿のごとき若者、当惑。
人付き合いもしたことがないのに、いきなり女に誘いをかけられ、どうすればよいかわからぬ。この娘に対し、好意はある。若くて見た目も可愛い。しかし、赤く大きな猿のごとき若者とくらべ、あまりに小さすぎ、別の生きもののようにも感じられる。動物ほどの隔たりがあるわけではないが、恋人(という言葉は、若者は知らなんだが)というには距離が遠い。
どうしよう。私が誘ったわけではないから断ってもいいのだろうが、しかし、この娘のこと、嫌いではないし・・・。
若者は当惑し、なんとなく娘の髪や腕を撫でてみたが、そこから先が続かぬ。
不幸にしてというか、戦いしかようできん若者にとっては幸いにというか、とにかく、2人がけものに気付いたのはそんなタイミングであった。
「む?」
「だめ。振り向かないで」
初めに気付いたのは娘のほう。次に、娘の雰囲気が変わったので、若者も察した。振り向こうとして、娘に止められる。
「椅子のそばへ・・・座っちゃダメだよ。立ったままで」
2人は休憩所に入り、丸太を割った簡素な椅子のそばに立つ。
「後ろ、森の中の急な上り坂の下の茂み。黒いのが隠れてる」
娘が若者とじゃれ合うふりをして、ぐるっと身体を入れ替える。
それで、赤く大きな猿のごとき若者も、藪の中を見ることができた。
そいつは、へびとくらべれば、隠れるのは下手であった。
黒い毛に覆われた大きな身体は、鮮やかな緑の下生えの中では逆に見つけやすかった。また、じっとこちらを睨んでおるために、白目の部分がよく輝き、それで若者にもそいつを見つけることができた。
若者、ついうっかり、けものとピタリと目を合わせてしもうた。
黒いけもの。
じっと目を合わせ、若者を睨み返してきおる。
まだ見つかっておらんと思うておるか。迫られても逃げ切る自信があるのか。それとも?
「こちらを睨んでおる」
「目を合わせちゃダメだよ・・・まあいいや。
あれが、縄張りのけものだ。たぶん、私を狙って、偵察中」
「魔術師だからか」
「そう。あんたを連れてるから、迷ってるってとこかな」
「仕留められんか。手伝うぞ」
「木が邪魔」
「この広場で1対1になったとして、勝てるか?」
「・・・広場の端と端ならね。仕留めてみせる」
「では私が誘い出そう」
「だめだってば。あいつ、罠を張るって言ったでしょ?
手は使えないけど、落とし穴を掘ったり、岩落としの罠を組んだりはする。踏み込むのは危険だ」
「かまわん。その程度の罠、私が踏み抜いてやろう」
「え・・・」
「やつを仕留めてやろうではないか。1人でやるより、いまやるほうがよい」
「・・・ああ。たしかにそうだ」娘は決意の表情となった。「やろう!」
赤く大きな猿のごとき若者、突然、身を翻す(ひるがえす)。
娘のそばを離れ、飛ぶがごとく、突進。
藪に突っ込み、黒いけものの潜む藪へと一直線。上り坂となった藪をまっぷたつに切りひらく勢い。が、その足元がボコンと凹む。落とし穴だ! 足をとられ、あわや転倒。だが、若者の体型は、腕長き猿がごとし。とっさに手をつき、『力』のルーン! 転倒を回避。
黒いけもの、自分のすぐそばにあった棒に体当たり。この棒、けものの背後の低い崖の上につっかえてあったもの。それがバキンと外れる。と、その棒が支えておったものが、崩れ落ちてきた。
岩が、1つ! 2つ! 3つ!
崖から坂へ、坂から若者へ、殺到!
巧みな連携の罠であった。人間ならば、仕留められたであろう。しかし、『力』のルーンの所有者に対してこれは、いかんせん、小さすぎる。
『力』の若者、迫る岩を、右手でわっし、左手でわっし、掴み取る。最後に残った岩は、無造作に蹴り返す。どっかん。岩は粉々に砕ける。
けもの、仰天。ぽかんとする。すぐ気を取り直す。逃げに転じる。
「ぬかるめ!」娘の声。
黒いけものの足元が、ズルリ。滑る。
下草に隠れた地面が、まるで土砂降りの直後のようにドロドロに濡れていた。いつの間に? 一瞬のうちに。娘の魔術が起こした現象であった。『ぬかるみ』の魔術。地面をぬかるませ、敵の足を取るという地味な魔術。落とし穴へのお返し。
黒いけもの、前足を両方とも派手に滑らせ、べちゃっと地面に伏せてしまう。しかし、生まれつきの四つ足である。転倒はせぬ。伏せた状態からビチャビチャッと泥をはじいて起き上がり、ふたたび走り始める。
そこへ赤く大きな猿迫る。猿は両手に岩。ふたたび『力』のルーン! 右手の岩を、けものの前方へ、ぶおんと投げる。
けもの、慌てて方向転換。その目の前の立ち木に岩がぶち当たり、立ち木はズタボロに、岩は粉々に。恐るべきパワー。けものは道へ向かって跳躍。木と木のあいだの細い空間をくぐって、坂の下の開けたところまで、一気に飛び降りる。
若者には後が追えぬ。飛ぶことはできるが、身体が大きすぎ、木にぶつかること必定(ひつじょう)。やむを得ず、木々の間を駈け降りる。数秒、若者が遅れた。
けもの、パッと後ろを振り向き、それを確認。そして前を向く。広場の端にいる娘に、目を。
「赤く大きな猿、強すぎる。あの娘のほうが、突破に易し」──とでも判断したか?
だがその判断、2人の思うツボであった。
「もらった──魔弾!」娘の声。つづけて、「ぬかるめ! 天の女神の御胸(みむね)の『火』、レガーの恵み、いまここへ!」
紫色の閃光をともなって、黒い砲弾がけものへと飛ぶ。けもの、横っ飛びでかわす。だが着地点にぬかるみ。横っ飛びしたところがぬかるみでは、四つ足でも耐え切れぬ。スッテンコロリ。そこへ、ゴッと音を立てて白い火が燃え上がる。けものの身体の前半分が、丸ごと包み焼きにされた。悲鳴を上げてのたうつ。
そこへトドメの岩。赤く大きな猿のごとき若者の左手から、一直線に飛んだもの。もちろん、『力』の乗った剛速球。
けもの、死亡。
「・・・倒してみれば、そう大きいもんではないな」「でっかいねえ!」
2人は同時に反対のことを言って、笑った。
「おまえさんから見ればな」「そりゃあんたから見れば──」
で、また笑った。
けものの死はすでに確認した。もう、慌てる必要はない。
「左手でも投げれるんだねえ」
「うん?」
「岩。利き手は右でしょ?」
「うむ。相撲で鍛えておるのでな」
「・・・相撲って、岩を投げたりしたっけ?」
「するぞ。距離があればな」若者は平然と答えた。「せんのか?」
「あんたの相撲は、私たちの相撲とはちがうみたいだねえ」
「かもしれん。私たち兄弟は頑丈だからな。
・・・それより、これで仇が取れたな」
「そうだね」娘は考え深げに言った。「でも、仕事のほうが大事。村を守った。そっちのが大事だ」
「うむ」
若者は娘をすっかり好きになった。
「これで、さすがにもう、追い出されることはないな?」
「・・・ああ。そうだね」
「よかったのう。
それで、ええと・・・こいつは、食べるのか?」
「ううん」
「では、その、ええと、血抜きだ。そうだ。血抜きをして、私が村まで・・・」
言いかけた赤く大きな猿のごとき若者に、娘が抱き着く。
「あとでいい。解体なんて、狩人にやらせる」
「う、うむ」
「・・・本当だったの?」
休憩所で抱き合ったあと。
縄張りのけものの死体を軽々と担ぐ若者を見て、娘がうっとりした声を出す。
「うん? なにがだ」
「『力』のルーンを持ってるって話」
けものは、人間2人がかりでも上がらんぐらいの大物なのである。それを、丸太に吊るしてひょいと肩に担ぐ。して平気な顔ですたすた歩く。もうこんなもの、魔術かルーンのはたらきでなければなんなのだとなる。
「うむ」
「疑ってごめんね」
「なに。それより、ほら」
「え?」
赤く大きな腕が、娘の尻を抱き上げた。片手で軽々と抱っこして、胸に抱き上げる。
「ちょっと・・・」
「このように、ものを持ち上げるぐらい、なんともない」
「・・・ものって」
「可愛い娘ならば、なおさらなんともない」若者は慌てて付け加えた。
「ばか」
娘は若者の首に抱き着き、若者は生まれて初めての温かさを楽しみながら歩いた。
「私、すみれ。あんた、名前は?」
「私には、名前がないのだ。親がつけてくれんかったのでな」
「じゃあ、リッキー」
「りっきー?」
「『力』の所有者だから、リッキー」
「リッキーか」若者は笑った。「すみれ」
「リッキー」
「猿の村。猿の村か」
赤く大きな猿のごとき若者、縄張りのけものを携えて娘を送り届けた。娘と別れ、旅路にもどる。
けものを退治したことで、娘の地位は確かになった。もはや手助けすることもなし。
「だが、いつかそのうち。
そうだな。私が王になったら、そのときには、挨拶に行こう。
だから、村の名前はしっかり覚えておくのだ。猿の村、猿の村・・・」
だが残念。
若者よ。そなたは覚えねばならぬものを間違うた。
のちに若者が村の場所を調べようとしたところ、こう言われてしもうた。
「はてさて。猿の村なんて、いまどきはどこの山にもひとつはあるからのう」
「えっ?」
「ヒューマンが増えたからのう。どの山の猿村だね?」
猿の村という名には、『ヒューマンの村』という程度の意味しかないのであった。猿の村、つまり猿の神の子孫の村──ヒューマンの村である。
おそらく、地元ではそれで通じるのであろう。
しかし外では通じない。『いちばん大きな兄者』と同じく、地元でなければ見分けがつかぬ呼び名だったのである。
「では、すみれという娘を知らんか?」
「そんな名前はおめえ、どの村にも1人か2人は居るぞ」
「なんだと。ええと・・・そうだ。猿の村の魔術師なのだが」
「魔術師の名前なんぞ、誰も覚えとらんわい」
「なんでじゃ!」
「そりゃおめえ、『猿の村の魔術師』で通じるからじゃろが」
「そうじゃそうじゃ。狩人や犬なら、名前でも覚えておかんと不便じゃがのう」
「1人しか居らん御方に、いちいち名をつける奴があるか」
「なんじゃ、おまえのコレか? 残念じゃったのう。わっはっは」
まこと残念。
「山の名前を、覚えておくのであった・・・」
旅の出会いの儚さ(はかなさ)を思い知らされる、赤く大きな猿であった。
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