旅人あらわる
1、赤い大地の息子ども
その昔、この世には、人間の居らぬ土地というものが、そこらじゅうにあった。
そこらじゅうに怪物が居り、神が居った。
神竜(じんりゅう)も、まだ地上に寝そべっておった。山よりも高いところにある眼を半分閉じ、地平線より遠くまで届く図体をだらりと伸ばして、寝そべっておったのです。こんな光景を見たものは、いまの世にはとんと居らぬ。しかし、そのころにはそんな光景がふつうに見れたのである。
さて、そんな人間の居らぬ土地のうちの、ひとつ。
『赤い所』と呼ばれる、荒野があった。
名のとおりの、赤い土。視界を遮る、険しい岩山。
人間は居らず、獣も居らず、草木も一本も生えておらぬ。
そんな荒くれた土地を、二柱の神が支配していらっしゃった。
赤い大地の神と、暗い霊峰の女神。
二柱の神は夫婦であった。この土地を統べ、たくさん子をなした。
子は、みな男であった。みな赤く大きな図体をし、猿のように長い腕をしておった。額のかどにはそれぞれツノが生えておった。
赤く大きな図体なのは、父たる赤い大地の神の肌色に似たため。
ツノが生えておるのは、母たる暗い霊峰の女神の形に似たためであった。
兄弟の生まれた『赤い所』には人間は居らなかった。だから、兄弟は人間を見たことがなかった。人間がどういうものか、知らぬままに兄弟は育った。
見るものといえば、父たる赤い大地と、母たる暗い霊峰の女神、それに兄弟たる互いの顔だけ。
他に誰も居らぬので、毎日兄弟で相撲をした。だいたい毎日ケンカもした。
一日相撲をしては、その勝ち負けでケンカをする。
翌日になればまた相撲をして、その勝ち負けでケンカをする。
そういうことをくり返しておった。
兄弟は生まれたときからでっかかったが、相撲とケンカにより、さらに大きく、強くなっていった。
父たる赤い大地の神は子に興味がなく、母たる暗い霊峰の女神も子育てしなかった。兄弟に名前すらつけなんだのである。それだから、兄弟はただ毎日毎日相撲を取ったりけんかをしたりして過ごした。
2、旅人あらわる
長いあいだ、兄弟の暮らす『赤い所』には、だーれもやって来んかった。
獣も居らず、草木も生えぬ土地である。迷ったのでない限り、人間がやってくるような土地ではない。
そして、たまに誰かが迷い込んで来たならば、父たる赤い大地の神が怒って火を吐き、殺してしまった。赤い大地の神は、人間が嫌いなのである。
そして、ごくごく稀に誰かがその火をよけたとしても、兄弟の母たる暗い霊峰の女神が崩れ落ち、押し潰して殺してしまった。暗い霊峰の女神も、人間が嫌いなのである。
二柱の神は、人間が入ってきたらすぐに殺してしもうた。話も聞かぬ。逃がしもせぬ。問答無用、人間の姿を見るやいなや、即座に殺してしもうた。
それで、人間がこの土地に姿を見せることはなかった。
二柱の神は、どうしてこんなに人間が嫌いであったのか? それはわからない。たいへんに古い神様ですし、いまではもう、話もできない所に居られる。もしも、話ができるところに居られたとしましょう。そうであれば、我々はみんな生きてはおらぬ。二柱とも、人間が大嫌いですからね。質問なんぞする暇もないのだ。そういうわけだから、この二柱のお考えは、もう誰にもわからぬ。
ま、とにかく、兄弟の暮らす『赤い所』では、人間なぞ、とんと見ることはなかったのである。
ところがある日、ヒョロヒョロした旅人がやってきた。
「やあ」
ヒョロヒョロした旅人は、兄弟に挨拶をしてきおった。
「旅人か。これは珍しい」兄弟は驚いた。「よくぞ生きて居れたものだ」
「なんてことはなかったさ」
ヒョロヒョロした旅人はにっこり笑った。
だが、兄弟にとっては、『なんてことはない』などという事態ではない。
なんせ生まれて初めて自分たち以外の生きものを見たのである。
「一大事件だ」兄弟は騒ぎ立てた。「なんらかの、前触れであろう。俺たちの上に、なにか偉大なことが起こるにちがいない」
ヒョロヒョロした旅人はにこにこして兄弟を見ておる。
「それにしても・・・」兄弟は旅人を見た。「あんたは、ずいぶん小さいな」
兄弟にくらべると、旅人はとても小さかった。
兄弟の半分も背丈がない。肩幅は兄弟の4分の1もなく、腕の太さにいたっては、兄弟の8分の1もなかった。顔なんぞも、兄弟の顔のでかさは旅人の3倍はあろうかというほどである。
「人間は、みんな、私ぐらいさ」
ヒョロヒョロした旅人はそう答えた。
「ほんとうか?」兄弟はびっくりした。「人間は、小さいのだな」
「ああ、ほんとうさ。君たちが、人間の倍も大きいのさ」
「こいつは物知りなやつだ」兄弟は感心した。「もっと、いろいろ訊いてみてよいか?」
「かまわんよ。訊いてくれたまえ」
「それでは・・・」兄弟は訊いてみた。「どうやって来たのだ?」
「歩いてきたのさ」
「信じられん!」兄弟は驚いた。「あんた、ただ者ではないな」
「なに、私はただの旅人さ」
ヒョロヒョロした旅人は、ひょうひょうとしておる。
「たまげたやつ。ここは、ただの田舎ではないというのに。
──我らの父上に、火を吐かれなかったのか?」
「避(よ)けて歩いたのでね」旅人は答えた。
「たまげたやつ。父上の吐く火は、ただの火ではないというのに。
──我らの母上に、押し潰されんかったのか?」
「避(よ)けて歩いたのでね」旅人は答えた。
「まったくもって、たまげたやつ!」兄弟は驚いた。「父上の火は、この世に溶かせぬものはない。母上の押し潰すのにいたっては、髪の毛一本も逃がしはせぬ。それを、どちらも、避けただと!」
「私は、危難をかわすのは得意でね」
ヒョロヒョロした旅人は、まったくもって、ひょうひょうとしておる。
「むむ・・・」兄弟はうーんとうなった。「到底、信じられんが」
兄弟は人間を知らぬ。だから、人間の能力も知らなかった。
ここまでたどり着いた者が「避けた」と言うなら、それはそうなのであろう。人間にはそういう能力があるんかもしれん。そう考えてしもうた。
兄弟は人間を知らぬ。だから、『嘘』だとか『ごまかす』だとかいったことも知らぬ。思いつきもしない。それで、旅人の言い分を信じてしもうた。いつの世にも、素直な者は簡単に引っ掛けられてしまうのです。
「いやはや、あんたは、天地に2人とは居らんやつだ」
「光栄だね」旅人はにっこり笑って、付け加えた。「だが、みな、この世に2人とは居らぬものさ」
「そうかのう?」兄弟は首をひねった。「それで、あんた。こんなところに何の用があって来たのだ?」
「うむ。大きな赤い兄弟たちよ。訊ねたいことがある」
「なんだ? 小さなヒョロヒョロした旅人よ。」
「君たちの中で、いちばん力が強いのは、どいつかな?」
「いちばん大きな兄者だ」兄弟は答えた。「しかし、いまは、さんぽに出かけておる」
兄弟の中でいちばん最初に生まれた兄が、いちばん大きく、相撲もけんかもいちばん強かった。だが、その兄者は、よくフラフラとどこかへ出かけてしまう性質。「さんぽに行く」と言い、しばらくどこかへ消える。そして、ひょっこりもどってくる。そういう兄者であった。
このときも、いちばん大きな兄者は「さんぽに行く」と出かけ、まだ戻ってはおらなんだ。
「おや、それは残念だ」
ヒョロヒョロした旅人はそう言うた。だが、相変わらずひょうひょうとしておる。本当に残念だと感じておるのやら、わからぬ。何も感じておらぬようでもある。つかみ所のない男である。
「まあ、よろしい。手始めは、君たちでもかまわん。
私と相撲をしないかね?」
「・・・なんだと?」
兄弟はちと頭に来た。
兄弟とくらべて、旅人は半分もないのだ。腕の太さにいたっては八分の一もない。ヒョロヒョロしておる。
到底、相撲を申し込む男子には見えぬ。
だというのに、兄弟のことを恐れる様子もなく、『君たちでもかまわん』などと偉そうな口まで叩きおる。
こうなれば兄弟ども、沸騰する。
二柱の乱暴な神の、息子どもである。旅人がヒョロヒョロしておるので、これまでは控えておった。しかし、相手がけんかを売ってくるというのなら、もはや沸騰である。
「身の程知らずなやつ!」
「大口を叩くやつ!」
「イライラするやつ!」
いきり立つ兄弟を、二番目に生まれた次男がとりまとめた。
「ここは俺に任せろ」そして旅人にこう言い渡した。「よかろう。相撲をしてやる。だが、死んでも知らんぞ」
すると、旅人は薄ら笑いを浮かべて、こう言った。
「強がりは、勝ってからにしたまえ」
こうして、ヒョロヒョロした旅人と兄弟は、相撲を取ることとなった。
まずは、次男が向かい立つ。この場に居らんいちばん大きな兄者を除けば、次男はまず最強の力士であった。
「始めるぞ」
「いつでも来たまえ」
旅人はひょうひょうとしておる。
王者のごとき余裕。次男、頭に来た。
「ぬう!」
次男、組みついた。次男の赤く大きな手。旅人の頭に。大きな手が、旅人の上半身もすっぽり覆い隠す。旅人の頭はもはや見えぬ。まるで小動物をオオワシが掴むがごとし。もはや相撲という光景ではない。
「どうだ。降参せよ」
「いいや、降参せぬ」
「死んでも知らんぞ。降参せんか」
「死んだりしないさ。降参はせぬ」
「ぬう」
次男、動きが止まった。投げようとする。だが動かぬ。反対に投げようとする。だが旅人、びくともせぬ。
小さな手が、赤い大きな指にかかった。
「エイヤ」
旅人、気合いを発す。
すると、なんとしたことか。
赤く大きな図体が、ぽーんと空へ舞い上がった。
青い空をバックにくるくると大の字になって回り、どっかそのへんの赤い土の上にずでんどうと、突き刺さるがごとくにして落っこちた。
見ていた弟ども、一瞬、口も利けぬ。
「私の勝ちだね」旅人が笑った。
「あにはからんや」
弟どもはぶったまげた。
旅人をがっしり捕まえていたはずの次男。赤く大きなワシがネズミを掴んだがごとき光景。それが、一瞬のうちに空高く舞い上がり、地面に突き刺ったのは、次男のほうであった。
もう一度言うが、小さくヒョロヒョロした旅人が投げられたのではない。
赤く大きな次男のほうが、ぽーんと投げ捨てられたのである。
「二番目の兄者が、ぶん投げられおった!」
「さあ、心配はいらんとわかっただろう」旅人は笑った。「相撲をつづけようではないか」
弟どもは、順番に旅人と相撲を取った。
そして、順番にみーんなぶん投げられ、くるくると回って、ずでんどうと落っこちた。
「とうてい、かなわぬ」
弟どもはみな目を回し、赤い土の上に倒れた。
「まったくたまげたやつだ。勝てる気がせぬ。
これでは、いちばん大きな兄者ですら、勝てるかわからぬ・・・」
そこに、いちばん大きな兄者が帰ってきた。
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