第2話 子供について話をしてみたくなった

(初出 2021/12/11 note『子供の話』)


 私には、二人の子供がいる。

 一緒にいてとても楽しい人たちだ。


 二人とも私が創作活動をしているのは知っているし、時々意見をくれたりもするけど、絶対作品を読もうとはしない。お願いしても読んでくれない。

 小説も読む子供たちだけど、身内の作品は読みたくないという主義主張を貫こうとしていて、凄く立派だなあと尊敬している。かっこいい。


 私は彼らを産んだ母親で、保護者だけど、あんまり子育てをした記憶がない。

 もちろん、他の誰かが代わりに育ててくれたわけではない。

 彼らはきっと、頼りない私のことを思って、自力で育ってきたのだろう。

 私はただその側にいて、見守ってきただけだ。それしかできなかったから。

 たった一人の親が病気になって、どんなに心細かったかわからない。

 我慢させてしまったこともたくさんあっただろう。

 幼い彼らに支えられて、私は生きてきた。

 そんな家庭環境を非難されたり、心配されたりもした。

 あまりにも何もしてやれなくて、育児放棄ネグレクトみたいなものだったから。

 だけど、彼らは決して捻じ曲がらずに、真面目に真っ直ぐに育ってくれた。

 私が彼らにしてあげられたことは少なかったから、これは彼らの意志と努力の結果であろうと思う。


 今でも、彼らは毎日、私のところに来てくれる。

 そして、自分たちの考えたことを、たくさん話してくれるのだ。

 思春期以降の子供が、こんなに何でも親と話すことは、ちょっと珍しいのではないかなあ、と思いながらも、話し相手になれることを光栄に思っている。

 悔しいことに、話を長時間聞き続けることに疲れる時もあるけれど、それでもこのかけがえのない時間を大事にしたいと思って、なるべく耳を傾けるようにしている。


 私はほとんど彼らの言葉を否定しない。

 否定しなきゃいけないようなことを言わないからだ。

 自分は何を考えてどうしようとしているのか、それを彼らは話してくれる。

 彼らが考えた最善最良の方法なのだから、私が否定するような部分はほとんどない。

 元々考え方が真っ直ぐで、濁りがあまり無いようなのだ。

 もちろん、意見を求められれば本気で意見するし、間違ってるなと思えば指摘して、私がそう思う理由を話す。でも、押しつけたり命令したりはしない。

 彼らの人生を決めるのは、彼らだ。

 幼い頃はもちろんもっと介入していたが、もう、自分で判断すべき年齢である。


 私は彼らに彼ら以上の何かになれと思うことはない。

 彼らに期待していないわけではないが、彼らがそれぞれに満足できる人生を歩めるならそれでいいのだ。


 彼らの人生にもそれぞれ辛いことがあって、それなりに回り道もしたから、私の子育てを失敗とする人もいるかもしれない。

 でも、他人と比べて誇れるものを持っていなかったとしても、彼らはありのままの彼らで、充分に素晴らしいと思っている。自慢の子供たちだ。

 私には、この子育ては結果的に大成功だった。


 私たちは、親子というより、一つの船に乗った仲間であった。

 艱難辛苦に立ち向かうには、助け合わなければならなかったから。

 それが良かったとは思わない。

 本当は、もっと彼らを守り、親らしいことをたくさんしてあげたかった。

 でも、今彼らの仲間として同じ景色を見ることができる、それを誇りに思う。幸せだと思う。


 たぶん私は母として、それよりも、人間として、彼らのことを愛している。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る