第5幕 愛の騒乱
「このみかん甘そうですよ」
「そうか? じゃあありがたく」
「その代わりといってはなんですが、最後の肉は僕のものです」
「ラス肉の確約……? 斬新やな」
「韻踏んでますね」
「やろ。さすがやろ」
「ほんまに」
「ツッコまんのかい」
「いや、だって」
僕は鍋を置いたこたつを挟んで、先輩に向きなおった。
「漫才王3回戦まで行った人ですよ?」
「やりにくいなぁ。ま、ファイナルの壁は高かったわ」
手をついて缶ビールをあおる先輩。
結成一年目(ほんとは中学生の時からだけど)のコンビが年に一回の有名賞レースの3回戦まで行ったということで、綿貫露店の名はまた少し有名になった。変幻自在なボケとツッコミ、押しも癖も強いが、頭の回転の速さと愛嬌ゆえに憎めない先輩と、的確な言葉選びと仏のごときおおらかさを兼ね備える花田さんのキャラクター性、ネタの叙情性、あとはビジュアル性から、「次にくる芸人」とネット上で評されることも多い。
「来年頑張ってください」
「せやなー」
口直しのみかんをもぐもぐしながら先輩が目を細めた。
先輩の住むアパートは、劇場の近くにあった。下の階には花田さんが住んでいる。師走も半ばになって、周りが就職準備だ卒論だと忙しそうにする中、院に進学することを決めていた僕は、卒論も早めに出したために、割と暇していた。「バイトくらいしかすることなくて」と先輩にふと言うと、「ほんならこっちくる?」とごく自然に誘われて、今は事実上の同棲のような形で暮らしていた。先輩が家を空けている間、掃除したり料理したりして過ごす。ほとんど有閑婦人みたいなものだ。先輩の周囲からは「金のないバイト先の後輩が転がり込んだ」と思われていた。客観的にはそういうことだから、特に訂正することもない。たまに芸人仲間さんが来て、近所に迷惑にならない程度で飲めや歌えやの大騒ぎをする。先輩は輪の中心にいるというより、部屋の隅でちびりちびりとお酒を飲みながら、その様子を満足そうに眺めていることが多かった。輪の中から誰かが先輩に呼びかけて、それに答えると、その人は嬉しそうに笑う。同期では歳若いほうだが、どちらかというと人を可愛がるタイプのようだった。基本的にはそういった宴会も月に二度くらいのことで、先輩は僕と二人でいることを望んだから、大抵は部屋で二人身を寄せ合って、話したり笑い合ったり、たまには触れ合ったりしている。
今日は先輩のリクエストで鶏鍋を作った。美味いうまいと言いながら食べる先輩の顔を見ているだけで、体も心も満たされる感覚がした。
「蘇我フェニックスがあのネタでくるとは思わんかったわー。大穴やったな」
「変わったネタでしたよね。こんなのウケるのかなぁと思ったら意外といきましたね」
「な。着眼点が人間っぽくないんよな。共感性皆無やけど、訳わからんほど真実っぽさがあって」
「分かります。背骨の美しさの話で一本やるとは誰も思わないですもんね」
「薄ら怖いけど、そこがええよな」
「いいですよね。怖くて笑うって感情は初めてでした」
そこで、ノック音がした。
「花田やな」
「花田さんですね」
「俺出るわ」
立ち上がり、ドアを開けてくれる先輩。予想通り、そこには花田さんが立っていた。
「どしたん?」
「……言いにくいことがあるんやけど」
花田さんの表情は暗かった。いつも違う相方の様子に、先輩は少し身を固くしたようだった。
「なに。はよ言ってみ」
「これ」
彼は何か、雑誌のようなものを先輩に見せている。先輩は思わずそれを掴んだ。小声で何事か話し合っている。部屋の温度が急速に下がっていくような心地がした。
「……ほんなら、いったん部屋帰るわ」
そう言って花田さんは、最後にちらりと僕を見た。その目には、普段と違う、同情のような色があった。
先輩は玄関にしばらく佇んでいた後、固い表情でこちらに帰ってきた。
「……先輩」
「裕太。ちょっと話がある」
そう言って、部屋の中央に僕を呼んだ。
「……週刊〇〇ってとこに俺らが一緒にいるところを撮られたらしい。……不本意やけど、しばらく風当たり強くなるかもしれへんから、巻き込まれへんために一回、家帰り」
「聡、」
「大丈夫、何も心配せんでええ。ここは俺に任せとき」
先輩の瞳は真っ直ぐ僕を見ていた。僕は何も言えなくなって、ただ頷くことしかできなかった。
寮に戻って一週間が経つ。一般人ということで、週刊誌の僕の顔は隠れていたが、先輩の横顔ははっきりと写っていた。この前のデートの別れ際に撮られたものらしかった。綿貫露店のファンは概ね好意的に捉えたが、少し女性ファンが減った。しかし、世間一般からの反応が、綿貫露店の知名度を引き上げていった。
先輩の対応がよかったのだ。若手芸人の集まるイベントで芸能記者にマイクを突きつけられた先輩は、「恋人? ああ、かわいいですよ。ここで自慢していいならしますけど」と嬉々、という態度をあえて作って答えた。そこで花田さんがすかさず「こいつの惚気話、甘すぎて聞いてられないんすわ」と受け、笑いを誘った。二人がかりで記者の質問をユーモアで流したのがうまいと、芸能ニュースのコメンテーターが評価した。
一方で、心ない批判をする人も多かった。僕は一人、がらんどうの部屋に座って検索をかけ、綿貫露店が、先輩がネガティブな評価を受けていないかどうかを確かめた。あれば通報した。一日の大半それをしていた。綿貫露店の知名度が上がるにつれて、忙しくなった先輩と会う回数は減っていった。心に開いた穴を塞ぐために、そういうことをしているんだろうなと薄っすら分かっていた。でも止められなかった。彼とまめに連絡はとっていたけれど、普段自分が何をやっているかは言わなかった。心配されるのが目に見えていたからだ。先輩に迷惑はかけたくない。先輩の足を引っ張りたくもない。僕がいることで綿貫露店にマイナス要素が生まれてしまうのなら、たぶん、僕は彼の前から消えたほうがいい。
友人や、バイト先の人から連絡がくることもあった。皆、顔を見せなくなった僕を心配してくれていた。その全てに「大丈夫、元気にしてるよ」と伝えて、僕は部屋の真ん中で膝を抱えた。気持ち悪い。今日は何日だろう。……お腹すいたな。冷蔵庫を漁っても何も出てこなかったので、コンビニに行こうと玄関に向かった時、突然、チャイムの音がした。同時に扉を叩く音も。
「裕太、裕太!」
間違いない、あの声は先輩だ。
震える手で扉を開く。間髪入れずに先輩が飛び込んできた。
「……アホ!!」
手を握られる。
「そんな真っ白な顔して、なんも食うてないやろ。手ぇもこんな冷たして……食材買ってきたから、台所貸して」
座っとき、とソファに転がされ、毛布を掛けられる。しばらくして、危なっかしい包丁の音が聞こえてきた。先輩は普段料理をしない。きっと僕なんかのために不慣れなことを。僕は慌てて先輩の元に駆け寄った。
「そんな手しちゃだめですよ!! 危険です!! 猫の手です猫の手」
「座っときっちゅったのに。猫の手だぁ? こうか?」
「嘘でしょう……それは戦闘態勢の時の手です。家庭科で習いませんでしたか」
「なんか黙ってたら女子が全部作ってくれた」
「モテ自慢はいいですから……分かりました、見ててくだい、こうです」
「それは別に猫の手ぇやないやろ。猫はあれが精一杯のパーやろ」
「ド正論はいいですからとりあえず指を丸めてください」
「もー。こんなことになるやろう思って惣菜買ってきたわ」
結局、一緒にオムライスを作った。
ちゃぶ台に二人で座って、オムライスとお惣菜に向かって手を合わせる。
「いけるな。美味いやん」
「美味しいですね」
「……裕太」
先輩はふいに箸を置いた。
「バイトにも顔出してないんやてな。園長から聞いたわ。……いつも何してんの」
先輩の口調があまりにも優しく柔らかかったから、僕は箸を持ったまま下を向いた。
「……なんにも」
「裕太のことやから、一生懸命火消しに回ってるんやろ。……そんなんせんでええねんで」
「でも」
「そんなことしてる暇があったら、俺に電話してほしいな」
「……そうですね」
言えなかった。僕の存在が先輩の足枷になると感じていることを。足元がぐらつき始める。死刑執行の合図だ。
「でも、ほら、先輩、今ちゃんと上手くいってるじゃないですか。先輩の努力がちゃんと実を結んだんですよ。それこそ、僕なんかにかまってる余裕があったら、夢に向かって頑張ったほうがよっぽど、」
思いきりデコピンされた。あまりの痛さに悶絶する。
「〜〜〜!!」
「お前それはあれや、卑屈過ぎて傲慢になっとる奴の言い草や」
「……」
「俺の意志はお前にも曲げられへんのや。お前は自分を否定する権利を持ってんのかしらんけど、俺の裕太を好きな気持ちを否定する特権までは持ってない。そこまで踏み込んでくるんは違う」
「あ……」
そうか……。
「分かった?」
「……すみませんでした……」
僕は先輩をある意味思い通りにしたかったのかもしれない。先輩が指摘してくれなかったら、きっと気づくのに時間がかかっただろう。
「僕……」
「あー、反省タイムは後々。オムライス不味なんで」
「はい。……いただきます」
「あ、惣菜もうま。最近のこんな美味いんや。……まぁ、裕太の手料理にゃかなわんけど」
他所を向きながら言う先輩。頬を赤らめながらそういうことを言うのは相変わらずで、何も変わってなくて、僕は泣きそうになって上を向いた。
「どしたん」
「天井のしみを見てます」
「いや絶対ちゃうやん」
「そういうことにしといてください」
ぐいと涙を拭うと、反対側は先輩の手がそっと伸びてきて、優しく指で払われた。
「……泣いてええねんで。ほんまは寂しかったんやろ」
膝で歩いてきて、僕が泣いている間中、先輩は僕を抱いていた。赤子にやるように、時々ゆすりながら。僕が何か言うと、先輩はうんうんと聞いてくれた。最後に瞼にそっと口づけを落とされて、「もう眠り。こっちはやっといたるから」と囁かれ、そこからの記憶がない。
起きたらベッドの上で、ちゃんと毛布をかけており、食器は片付いていて、先輩は帰った後だった。一抹の寂しさに少し毛布を引き上げる。……待て、これではまじもんの赤ん坊だ。
赤ちゃんではないので先輩に電話をかける。
「……先輩、ありがとうございました。何から何まで」
「ええんよ。よく眠れた?」
「はいもう、それはぐっすりと」
「ふふ、よかったわ。また明日夕方頃に行くから。友達と会うなりしーや。あんま一人でおったらあかんで」
「はい。先輩、」
「ん? なに?」
「……あの、今からそっちに行ってもいいですか」
「……張り込んでるみたいやで。それでもええの」
「……いいです。先輩こそ、それでも」
「俺はもちろんええよ」
「ありがとう……聡」
電話を切る。上着を羽織って家を出、夜を纏って、駅に向かい歩き出した。地面は凍っていたが、僕を確かに押し返してきた。
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